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【浦和レッズスペシャルインタビュー】小泉佳穂がC大阪戦で叶える遠き日の夢。そして、次の夢

浦和レッドダイヤモンズ

「お互いに夢に見ていました。本当に夢です。目標ではなくて、夢です」

そう話しながら、小泉佳穂は子供のように目を輝かせていた。

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9月第3週のある日、全体トレーニングを終えると、小泉佳穂は個人でボールコントロール、体幹トレーニングを行っていた。

その後も小幡直嗣コーチ兼通訳とサッカー談義に花を咲かせる。徳島ヴォルティス時代からのリカルド ロドリゲス監督の代弁者と意見を交わす。その談義は敢えて自分たちで終了の合図をしない限り、いつまでも続きそうだった。

FC琉球でチームメートだった小野伸二と同じ18番を背負い、レッズの攻撃をコンダクトする。浦和レッズ加入1年目、J1リーグ初年度とは思えないプレーぶりでファン・サポーターの心をつかんだ。

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しかし、チームのゴールや勝利にはしゃいでも、自分が評価されることに浮かれる様子を見せない。誇張でもなければ、謙遜でもない。まるでもう1人の自分を俯瞰して見ているかのように落ち着いている。

「僕は理屈で考えるタイプなんです。理屈で考えて、理屈で詰める。理詰めで詰めて詰めて、自分がやらないといけない状況に追い込んだり、正解を見つけてから動きたいと思うタイプです。『四の五の言わずにやればいい』と言う人もいますし、僕自身そう思うこともあります。でも性格上、無理なんですよね」

それでも、次の対戦相手であるセレッソ大阪でプレーする坂元達裕について問われると、表情が変わった。

前橋育英高校時代の小泉佳穂(8番)と坂元達裕(11番) 前橋育英高校時代の小泉佳穂(8番)と坂元達裕(11番) 本人提供

FC東京U-15むさしから前橋育英高校でチームメートだった。大学は小泉が青山学院大学、坂元は東洋大学に進学したが、それ以降もプロを目指し、励まし合う仲だった。

言い方を変えれば、互いにFC東京U-15むさしからFC東京U-18には昇格できず、また前橋育英高校からプロ入りはできなかった。その後、坂元は1年、小泉は2年と年数に違いはあれど、J2リーグのクラブを経由してJ1リーグのクラブに移籍したことも同じ。サッカー選手として、非常に似通った境遇だった。そしてそれは、決して順風満帆とは言えなかった。

「だから、大学まではまさか自分たちがJ1リーグで試合に出て対戦できるとは思っていませんでした。大学のときですらリアルには思えませんでしたし、中学、高校のときは夢にすら思っていませんでした」

2014年に浦和レッズユースと対戦した時の小泉佳穂(左)と坂元達裕(右) 2014年に浦和レッズユースと対戦した時の小泉佳穂(左)と坂元達裕(右) ©URAWA REDS

プロになると、少しだけ違う境遇になった。小泉はFC琉球、坂元はモンテディオ山形に加入したが、なかなか出場機会を得られなかった小泉に対し、坂元はJ2リーグ42試合全てに出場。開幕戦こそベンチスタートだったが、35試合で先発メンバーとしてピッチに立った。

そして2年目、小泉よりも一足先にJ1リーグに活躍の場を移した坂元は、小泉が琉球でレギュラーになろうとしていた2020年夏にはすでに開幕から先発出場を続けていた。そして小泉がプロ3年目で浦和レッズの一員になった数ヶ月後の3月18日、坂元は日本代表に選出された。

FC琉球時代の小泉佳穂とモンテディオ山形時代の坂元達裕 FC琉球時代の小泉佳穂とモンテディオ山形時代の坂元達裕 ©J.LEAGUE

日本代表に選出されることは、小泉の目標の一つ。それを坂元は先に叶えた。

「去年の時点で坂元は近いうちに代表に入るだろうと思っていました。なので、驚くこともありませんでした」

妬みはなかった。嫉妬するような希薄な間柄ではない。純粋に祝福できた。追いつきたいという気持ちはあったが、それもライバル心に心を燃やしたわけではなく、サッカー選手としてのピュアな感情だった。心から祝福できた。むしろ、自分自身がうれしくなった。

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自身と日本代表の距離感はどうなのか。

坂元が日本代表に初選出されたわずか3日後の3月21日、レッズは埼玉スタジアムで川崎フロンターレと対戦した。日本代表を経験した選手が複数存在する前年のJ1リーグ王者は、チームや個人の今の力を測る一つの物差しとも言えた。

それまでの約1ヵ月で経験したJ1リーグのスピード感や強度はJ2リーグでは味わえないレベルだったが、リカルド ロドリゲス監督の戦術が自分に合っていたこともあいまって、1ヵ月ほどで順応してきた手応えはあった。

前年王者に対してもチームとして意識を統一させ、前半は攻守ともに迷わずプレーできた。それでも42分に失点すると、後半には失点を重ねた。終わってみれば0-5。大敗だった。

「僕はトップ下をやっているので僕自身と、相手の脇坂(泰斗)選手や田中 碧選手、小林 悠選手との差がそのままスコアに出たと思っています」

メディアの質問一つひとつに対して、時に腕を組んでこうべを垂れ、時に天を仰ぎ、深く考えながら答えを導き出していた小泉は、そう言って唇をかんだ。日本代表に選出されている選手たちとの差を痛感した一日だった。

3月21日の川崎フロンターレ戦 3月21日の川崎フロンターレ戦 ©URAWA REDS

あれから半年が経った。レッズはJリーグYBCルヴァンカップで川崎に勝利した。正確に言えばホームでの第1戦は1-1、アウェイでの第2戦は3-3と2試合ともに引き分けだったが、アウェイゴール数の差で準決勝進出を決めた。

結果は半年前とは大違いだ。ならば、差は縮まったのか。そう問われた小泉は、すぐにかぶりを振った。

「前回は個人としての差があり、川崎の方が個の力が上だったので大敗しました。個人の技術が半年で劇的に伸びることはほとんどありませんし、差が縮まったとは思っていません」

レッズの一員として、J1リーグで半年以上戦い続けたことで、細かいところでの成長は実感している。言葉で説明するのは難しいことだが、成長しているのは間違いない。だが、それが川崎の選手たちとの差を埋めるほどのことではないと自覚している。

では、何が違ったのか。

「チームとしての戦い方でカバーできるところまでは来ているという実感です。チームの完成度には川崎戦や横浜FC戦で手応えを感じています」

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「J2リーグのチームから来てレッズで試合に出ているという状況が目新しいですよね。さらに攻撃の花形と言われるポジションであるトップ下でプレーしています。注目されやすい立場にありますし、いろいろな人の目に止まりやすいのだと思います」

その評価を小泉自身は「少し過剰」と表現する。日本代表に推す声は耳に届く。日本代表に選ばれたいと思っている。ただ、「海外組込みの代表だと入れると思わない」と淡々と話す。自信がないわけではないが、その距離感を見誤りはしない。まるでもう1人の自分を俯瞰して見ているかのように。

そして、川崎の選手たちがそうであったように、坂元は小泉にとって、日本代表との距離を図る物差しの一つになるだろう。

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夢が叶うこと自体は、時間にすればたった一瞬だ。互いに先発出場するのであれば、夢が叶うのは試合開始のホイッスルが鳴った瞬間。いずれかが途中出場だった場合も、その選手がピッチに入った瞬間。いずれにしても、一瞬でしかない。次の瞬間、現実になる。

「個人的な感情で言えば、一番負けたくない相手です。お互いにしっかりと完全燃焼できる試合になればいいなと思っていますし、自分のいいところを出し切る試合にしたいというのが個人的な感情です。ただ、実際に試合が始まったら、勝ち点3を取りたいですし、そのために何をするのかというところはどんな試合でも変わりません。試合が始まってしまえば、実際にマッチアップするときに意識するくらいで、それ以外はただただ勝つためのプレーをすることになります」

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夢が現実になることを小泉は理解している。現実になることは喜びである一方、ある種の儚さも内包しているのかもしれない。

だが、それは新たな夢の始まりでもある。その夢とは、坂元が初めて日本代表に選ばれた際に思ったことであり、今でも思うこと。もしかすると、C大阪戦が終わった後に強くなる思いかもしれない。

「その次の夢は一緒に日本代表でプレーすることです」

ある日は夢ですらなかったことを叶え、83日ぶりの埼玉スタジアムでの試合で完全燃焼する。そして今はおぼろげな次の夢の輪郭を少しはっきりとさせるべく、小泉はC大阪戦のピッチに立つ。

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クラブ名
浦和レッドダイヤモンズ
クラブ説明文

1950年に中日本重工サッカー部として創部。1964年に三菱重工業サッカー部、1990年に三菱自動車工業サッカー部と名称を変え、1991年にJリーグ正会員に。浦和レッドダイヤモンズの名前で、1993年に開幕したJリーグに参戦した。チーム名はダイヤモンドが持つ最高の輝き、固い結束力をイメージし、クラブカラーのレッドと組み合わせたもの。2001年5月にホームタウンが「さいたま市」となったが、それまでの「浦和市」の名称をそのまま使用している。エンブレムには県花のサクラソウ、県サッカー発祥の象徴である鳳翔閣、菱形があしらわれている。

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