【浦和レッズニュース】期限付き移籍の真相 武田英寿が悩み抜いた末に出した答え…「3年後にはパリ五輪がある」
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ふと時計を見ると、すっかり夜中だった。
浦和レッズの武田英寿は、代理人との電話を切った後もずっと考えていた。きょうは決め切れないと思い、寝支度をして横になった。「朝起きてから答えは出そう」と自分に言い聞かせ、静かに目を閉じた。
期日が1日過ぎた朝は、6時50分に起床した。
目はしっかり覚めたものの、頭はすっきりしない。自宅から選手寮へ朝食を食べに行くまでの間も悩んでいた。
「決めたのは、朝ごはんを食べているときでした。そのあとすぐに『FC琉球に行きます』と伝えました」
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当日、その知らせを受けたクラブ内部は、せわしくなく動いていた。20日昼のインタビュー取材も急きょ夕方にスケジュール変更。当然、本人に聞く内容も変わってきた。メインテーマは決断に至るまでの過程。
「一番はここでチャンスをつかむことでした。リカルド ロドリゲス監督から出場機会を与えてもらった時期もありましたし、よく考えました。レッズには日本代表経験を持つ選手が多くいますし、そのなかでトレーニングを積んでいけば、自分の成長にもつながったかもしれません。それでも、最後は試合に出て、経験を積むほう大事だなと思いました」
6月以降はローテーションメンバーからも外れるようになり、天皇杯、YBCルヴァンカップも出場機会はなかった。
出口がなかなか見えずにもがくなか、東京五輪を戦うU-24日本代表の合宿にトレーニングパートナーとして、7月5日から約2週間帯同する機会に恵まれた。
パリ五輪世代の武田から見れば、ひと世代上の選手たち。年齢の差以上のレベル差にがく然とさせられた。海外組が多くを占めたチームの雰囲気は、Jクラブでは感じたことがないものだった。
「基準値がかなり違いました。止めて、蹴るの技術、判断のスピード、球際の強さなど、すべてが予想以上でした。オリンピック代表まで上り詰めてきた選手たちを甘く見ていたと思います」
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食事のとり方ひとつ見ても、細かいところまで気を使うのが当たり前。勉強になることばかりだった。
「かなり意識が高かったです。僕はプロ2年ですが、まだまだだなって。時間の使い方を考えて、意識を変えていこうと思います」
目を奪われたのは、同じ2001年生まれの久保建英だ。
"飛び級"で五輪代表に選ばれ、チームの主軸となっている。ピッチでは堂々とした立ちふるまい、ゴールを生み出す技術も別格。世代では頭ひとつ抜けた存在と言っていい。
「うまいなと思いましたね。ただ、同世代ですし、自分もやってやれないわけがないと思っています。技術よりもあのチャレンジする姿勢は見習いたい。前を向いて仕掛け、パスでも難しいコースで平然と通そうとします。周囲と合わないときは、自ら要求もしていました。僕もそれくらいやっていかないと」
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「やっぱり、試合に出たい」
レンタル移籍を考えていることは、誰にも話さなかった。親にも恩師にも相談することなく、ひとりで考えた。
同じ青森山田高校出身の藤原優大がJ2の相模原へ期限付きで動いたばかりだったものの、気にすることもなかった。自分の成長を考えて選択した。
「いまだけのことを考えたわけではありません。3年後にはパリ五輪がありますから」
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「移籍先で出場機会が約束されているわけではありません。どこで行っても自分のがんばり次第。結果には、こだわります。得点、アシストを含めて10ゴール以上に絡みたい」
レッズでの1年半は濃密なものだった。初々しさが残るプロ1年目は大槻毅前監督にフィジカルから徹底的に鍛え直してもらい、たくましくなった2年目はリカルド ロドリゲス監督のもと、戦術の深みを知った。
同じポジションでプレーする小泉佳穂の背中からも多くのことを学んだという。
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一度レッズを離れることになっても、思いは変わらない。自ら環境を変えて、新天地でチャレンジする19歳の目は、希望にあふれていた。半年後の自分もしっかり見えている。
「結果を出すことで自信をつけ、ミスを恐れずにプレーできる選手になります。琉球で大きく成長し、レッズの勝利に貢献できる選手なって戻ってきます」
力強い言葉には、覚悟がにじんでいた。
(取材/文・杉園昌之)
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