【新日本プロレス】内藤は拒否気味だった?BUSHIが語るL・I・Jヒストリー!

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【新日本プロレスリング株式会社/BUSHI選手】

メキシコから帰国した内藤哲也の“制御不能化”から約5年。ユニット結成から約4年半が経過したL・I・J。その怒涛のヒストリーを、チームの司令塔と言われる“オリジナルメンバー”BUSHIが振り返る特別インタビュー!

前編は、BUSHI選手のユニット加入時の秘話、なんとユニット名は3人の会議で決定!? 全日本プロレスの同期だったSANADA加入話など、秘蔵トークをたっぷりお届け!

プロフィール写真提供/BUSHI選手

※以下、BUSHI選手インタビュー(前編)の序盤をSportsnaviで無料公開!

L・I・Jの潤滑油? そう言われるんですけど、俺自身はとくに何か考えがあるとかじゃないんですよ。ただ、自然とそうなったってだけで

【新日本プロレスリング株式会社】

――今回はBUSHI選手の目から見たロス・インゴベルナブレス・デ・ハポン(以下、L・I・J)のヒストリーを伺えればと思います。

BUSHI へえ、L・I・Jの中でどうして俺なんですかね?

――内藤哲也選手が15年5月にメキシコからロス・インゴベルナブレスを持ち帰り、L・I・Jを始動させたのが同年の11月でしたが、BUSHI選手はそのオリジナルメンバーとして、ずっとユニットの変遷を見てきたというか。

BUSHI ああ、なるほどね。そうか、ユニットとしては4年半経ったんですね。

――この期間は、長く感じますか?

BUSHI 4年の時はあっという間にも感じるし長くも感じますね。それだけ一年を通して数日のオフを除けば一緒に行動をともにしている時間が長いですからね。

――充実していた、と。それとBUSHI選手はL・I・Jのほかのメンバーとさまざまなつながりがあり、“L・I・Jの潤滑油”と称されることも多いので、客観的に語ってもらえるんじゃないかなと思いました。

BUSHI たしかにそういうふうに言われるんですけど、俺自身はとくに何か考えがあるとかじゃないんですよ。ただ、自然とそうなったってだけで。

――ムードメーカーというか、性格的なものなんですね。内藤選手は以前、L・I・Jで食事がてら話し合いをするときなど、BUSHI選手が場所を用意する点を踏まえて「BUSHIはL・I・Jのお母さん的存在」と発言していて。

BUSHI ああ(笑)。でもまあ、潤滑油って言っても、べつに俺は意見を交通整理するわけでもないし。というか、みんな各々が自分の考えを持ってますけど、俺らはそれで割れたりするってこともないんで。そういえば最近、ちょっと意外に感じたのが、『週刊プロレス』でメンバー6人の座談会を初めてやったんですけど、その記事を見たときに「俺、こんなにしゃべってんだ?」っていう(笑)。

――そういう自覚がなかったと。あと、L・I・Jを新日本のほかのユニットと比べたときに、唯一脱退したメンバーがいないんですよね。そのへんはどう分析されますか?

BUSHI たしかにウチは辞めたメンバーっていないですね、なんでだろうな……。ひとつ言えるのは、外から見れば内藤哲也が中心に見えるんでしょうけど、L・I・Jにはリーダーがいないっていうことで。だから、上からの縛り付けみたいなものがとくにないし、個々が自由にやってるからこそ、裏切りがないのかなって気はしますね。

――たしかに内藤選手も常々「L・I・Jはそれぞれが競い合うユニット」と言っていますね。

BUSHI その空気感が、みんなも居心地いいんだと思いますよ。本隊にいた頃は、タッグを組む相手も日によって変わってましたけど、L・I・Jは少数精鋭なんで、そういう面でもやりやすさは感じますね。

「一緒にやりたい」という話をした時、最初は内藤は拒否気味だったんですよ。きっと、コッチの覚悟を伺ってたんでしょうね。

【新日本プロレスリング株式会社】

――ここからはL・I・Jの歴史を辿っていきたいと思います。そもそも、内藤選手が15年5月にメキシコからLOS INGOBERNABLESとして帰国した当時、BUSHI選手は長期欠場中でした。

BUSHI ああ、そうでしたね。

――14年12月の試合中、BUSHI選手はリングに首から落下して担架で運ばれ、のちに急性硬膜外血腫、脊髄震盪、第12胸椎骨折と診断されます。その後、15年の8.16両国で復帰戦が決まったものの、それも練習中のケガにより見送りとなって。

BUSHI ……。

――そして、15年の11月21日の『WORLD TAG LEAGUE』開幕戦で、欠場中だったBUSHI選手は内藤&EVIL組のセコンドとして予告なしに登場し、場内はどよめきに包まれました。

BUSHI その大会で最初、俺は復帰戦のカードが組まれてたんですよね(BUSHI&マスカラ・ドラダvs小松洋平&田中翔)。でも、その前日に俺は会社に「出場できない」って一方的に連絡をして。

――そして、内藤選手たちに合流した、と。この時のことに関して、内藤選手は「オフに東北に行く用事があって、その帰りの新幹線でBUSHIから連絡が来た。それで上野駅近くの喫茶店で会ったら『一緒にやりたい』と持ちかけられた」と発言しているんですけど……。

BUSHI そのとおりですよ、何も盛ってないです(笑)。たしか、11月の大阪大会の前日だったんじゃないかな?

――11.7大阪府立の前日だ、と。その日はEVIL選手が新日本初のシングルとして後藤洋央紀選手と対戦しますが、試合終盤にそのシリーズを欠場していた内藤選手が乱入して。

BUSHI そうそう。俺が内藤と会ったのは、忘れもしない上野の『星乃珈琲』ですよ。当時、欠場中に内藤の試合を観ていて「おもしろいことやってるな」って思ってたんですよね。観客からのブーイングにもお構いなしで好き勝手にやっている自由な振る舞いを見せていて、そこに惹かれたというか。

――本隊時代の内藤選手とはまた違った、と。

BUSHI 10月の両国から内藤のパレハとしてEVILも加わり、二人の注目度が高まっていて。俺としてもこれからの動向が気になったんで、内藤とはそういう話もしましたね。そもそも、俺はそれ以前にメキシコで、LOS INGOBERNABLESを名乗っていたか不明なんですけど、メキシコでソンブラとルーシュたちの試合を見たことがあって、そのとき、ラ・ソンブラに「おもしろいことやってるね!」って伝えてたんで、もともとソンブラのマスクに興味があったんですよね。そういう中、内藤に刺激を受けて、「俺、このまま普通に復帰しても何も変わらないんじゃないか?」って思ったというか。

――それは自分自身にくすぶりを感じていた部分が?

BUSHI ありましたね、すごく。しかも大きなケガをして「プロレスに向いてないのかな?」とまで思った時期もありましたから。

――そこまで思いつめてたんですね。BUSHI選手が本隊にいた頃は、KUSHIDA選手が叱咤を送っていたイメージはあるんですよね。同じような時期に他団体から新日本に移籍した同世代のジュニア選手として、BUSHI選手に奮起を促していたというか。

BUSHI ああ、そういう言葉にホントだったら気合を入れなきゃいけないのに、当時は気にしないようにしてた気がしますね、どこか目を背けていて。そもそも、俺は全日本プロレスから新日本に戦場を移したときに、「獣神サンダー・ライガー、タイガーマスクを超えるようなマスクマンになる」っていうテーマを抱えてたんですけど、なかなか本隊時代は突き抜けられなかったというか。

――そのBUSHI選手の「一緒にやりたい」という言葉に対して内藤選手の反応は?

BUSHI 最初は拒否気味だったんですよ。

――あ、そうでしたか。

BUSHI きっと、コッチの覚悟を伺ってたんでしょうね。そこで最後に「俺にとってはラストチャンスだと思ってる。コレで無理だったらあきらめる」って伝えたときに……。
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著者プロフィール

1972年3月6日に創業者のアントニオ猪木が旗揚げ。「キング・オブ・スポーツ」を旗頭にストロングスタイルを掲げ、1980年代-1990年代と一大ブームを巻き起こして、数多くの名選手を輩出した。2010年代以降は、棚橋弘至、中邑真輔、オカダ・カズチカらの台頭で再び隆盛を迎えて、現在は日本だけでなく海外からも多くのファンの支持を集めている。

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