【新日本プロレス】タマ・トンガが語る“BULLET CLUB”創世記(前編)!
【タマ・トンガ】
そのオリジナルメンバーであり、現在のグループの中核を担う男、タマ・トンガにBULLET CLUBの創世記から、現在に至るまでロングインタビューを敢行! まずは前編をアップ!
TOP写真提供/タマ・トンガ
※以下、タマ・トンガ選手インタビュー(前編)の序盤をSportsnaviで無料公開!
俺は常に長期的なプランを立てている。このBULLET CLUBは、俺にとっての“投資”みたいなもんだ
【新日本プロレスリング株式会社/笹井タカマサ】
タマ フフフ。おまえらに言われたくないけど。一応、「サンキュー」と言っておこうか(ニヤリ)
――2013年の結成当初からのオリジナルメンバーであるタマ選手は、7年後もBULLET CLUBの勢いが続くと予想していましたか?
タマ そんなのあたりまえだろ? むしろ、そう思わない理由がどこにある?
――プロレス業界は変化が激しいことで有名です。たとえば、あのnWoも非常に成功していたグループでしたが、活動期間はBULLET CLUBほど長くはありませんでした。
タマ そもそも俺は、どんなことにおいても短期間のプランは立てないタイプなんだ。常に長期的なプランを立てている。いいか? このBULLET CLUBは、俺にとっての“投資”みたいなもんだ。BULLET CLUBに俺の時間とエネルギーを注いで、長期的な投資をするつもりでいたんだ。言ってる意味わかるかな?
――BULLET CLUBがずっと存在し続けると信じていたんですね。
タマ そうだ。それに俺たちが存在し続けるのは、まだまだ7年なんてもんじゃないぞ? それこそ「永遠に」だ!
――BULLET CLUBの繁栄は永遠に続きますか。
タマ それぐらい、俺は自分を信じているし、BULLET CLUBのやること・イコール・俺がやることなんだ。まあ、俺たちが成し遂げたことを見てファンがnWoを思い出す気持ちもわからなくはない。俺たちより以前に活躍していたヤツにはある程度のリスペクトも払っている。……でもな、本音を言わせてもらえば、そんな過去のことはどうでもいいんだよ!
――過去のことは気にしませんか。
タマ いったいこの俺が何をして、何を成し遂げるのか? 大事なのはそれだけなんだ。つまり俺の行動そのものが、BULLET CLUBのアイデンティを築き上げているんだ。
俺たちはみんなニュージャパンのはぐれ者……、いわゆるアウトサイダーだった。話が合うのも仲良くなるのも当然だったってことだ。
【新日本プロレスリング株式会社】
タマ 関わり合い? そもそも俺たちは4人とも、日本の団体にとって“外国人”だったじゃないか。そんな中で、4人とも英語を話すという共通点もあったし、俺たちはみんなニュージャパンのはぐれ者……、いわゆるアウトサイダーだった。俺たちがこのリングで経験したことを、俺たちより知っているヤツは他にいなかった。話が合うのも仲良くなるのも当然だったってことだ。
――2013年初期、タマ選手はアンダーソン選手のセコンドに付いていましたね。
タマ このビジネスの真髄は、すべてアンダーソンが俺に教えてくれた。当時の俺はまだただの若造だったし、完全に未熟なレスラーだった。試合をどうやって自分のペースで運ぶのか? そんなことすら理解できてなかったからな。
――2013年の両国国技館で開催された『INVASION ATTACK』では、プリンス・デヴィット選手がApollo55のタッグパートナーだった田口隆祐選手を裏切り、バッドラック・ファレ選手をボディガードとして仲間にしました。後に、これがBULLET CLUBの誕生となりますが、当時タマ選手はそのことに気付いていましたか?
タマ その答えはノーだ。その話の前に、ファレはオフィスから海外遠征に行くチャンスが与えられていた。俺にはそんなチャンスすらなかったけどな?(苦笑)。俺も当時、ほんの数週間だけニュージャパンを離れていたことはあったけど、ファレの海外遠征とは根本的に意味が違っていた。当時、まだ下っ端だった俺が知っていたのは、あの大会でファレがニュージャパンに戻ってきたこと、デヴィットと一緒になったってことだけだ。
――アンダーソン選手はどんな反応をしていましたか?
タマ 俺は何もわかってなかったと言ってるだろ? 唯一わかっていたのは、カールが俺のメンター(指導者)であり偉大な“センパイ”だったということだけだ。カールの行くところには俺も付いて行く。それ以外、まったく何も考えなかった。BULLET CLUB結成の話が持ち上がった時にも、シンプルに「オーケー。これがいまから俺たちのすべきことなんだな?」と思っただけだ。
アンダーソンとデヴィットは俺とファレに「ヒールとは何か?」を教えてくれたんだ。
【新日本プロレスリング株式会社】
タマ ああ。さっきも言ったように、マシンガン(アンダーソンの愛称)は俺のメンターだった。だから彼の行動に対して、一切の疑問は抱かなかった。あの頃の俺はまだまだヤングボーイだったし。デヴィットがリーダーということとアンダーソンと一緒に仕事をやること以上に、BULLET CLUBというユニットに関して、くわしいことは何も理解していなかったんだ。
――ところが、そのBULLET CLUBは、結成後まもなく多くのファンから嫌われるようになりました。2013年の6.9後楽園ホールで開催された『BEST OF THE SUPER Jr.XX』の優勝決定戦で、反則や無法三昧の末に、デヴィット選手が勝った時の観客の反応は凄まじいものでしたね。
タマ ククク! あの頃は、ニュージャパンの観客もかなりワイルドだったな(ニヤニヤ)。
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