【新日本プロレス】清野アナに直撃!なんと新日本のリングアナを打診されていた!?

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【新日本プロレスリング株式会社/清野茂樹アナウンサー】

新日本プロレスのレスラーや関係者に、ファン時代〜選手や仕事として関わり始めた時代、自分が関わったベストバウトなどを直撃する集中連載! 

今回も新日本プロレスへの“偏愛”(!?)ぶりで知られる清野茂樹アナウンサー! 紆余曲折の末、新日本プロレスの実況席に座るまでの物語とは? 怒涛の後編をアップ!

※プロフィール写真提供/清野茂樹アナウンサー

※以下、『“ボクと新日本プロレス”ヒストリー』清野茂樹アナ編(後編)の序盤をSportnaviで無料公開!

博多大吉さんが上京する、という記事を見て、「こりゃあ、自分もいよいよ動かなきゃいけないな」と思って、広島エフエムに辞表を出す決心がついたんです。

――前編では、広島エフエム放送時代に、場内のラジオ放送というかたちながら、『G1 CLIMAX』優勝決定戦の実況を担当したところまでお話をうかがいました。でも、そこからあらためて上京するまでは、まだ時間がかかるわけですよね? 

清野 そうなんですよ。たしかにそのお仕事は手ごたえがあったんですけど。とは言え……。やっぱり会社って、そう簡単に辞められないじゃないですか。 

――まあ、普通はそうですよね。

清野 コチラが「もう会社を辞めて、東京に行きたいな」と思っていても、それは自分の心の中にだけあるもので、いざ辞表を書くとなると踏ん切りをつけるまで大変じゃないですか。

――大きな不満がなければ、すぐ行動には移しづらいですよね。で、そういった状況の背中を押したのが、清野さんのラジオ番組(『真夜中のハーリー&レイス』毎週日曜日23時〜、ラジオ日本で放送中)でおっしゃっていた……。

清野 ええ。いよいよ「これは東京に行かねば!」っていう気持ちになったのは博多大吉(お笑いコンビ、博多華丸・大吉)さんの影響ですね。

――ラジオを聞いていない人もいらっしゃると思うので簡単に、その経緯を教えてください。

清野 そもそも大吉さんとは、ちょうどいまから20年前の2000年に広島エフエム放送で一緒に番組を毎週やっていた仲なんですよ。

――当時、福岡在住の芸人だった大吉さんが、週一で福岡から広島に通って、生放送するかたちだったみたいで。

清野 ええ。で、プロレスという共通点もありましたし、たまには飲みに行ったりしていましたし。逆にボクが仕事で福岡に行くときには一緒に飲んだりして、交流があったんですね。その番組が終わった後は、あまり会う機会がなくなってましたけど。

――かつての仕事仲間だったわけですね。

清野 それでボクが前回お話した『G1』両国大会の実況が終わった後に、広島エフエムで朝の帯番組を担当することになったんです。それまで夕方の番組をやっていたんですけど。で、朝の番組をやると自然と新聞をどうしても読むようになるんですよ。

――新しいニュースを知っておく必要があると。

清野 ハイ。毎朝、新聞をスポーツ新聞を含めて目を通す習慣がついて。そうやって目を通している時にある朝、「博多華丸・大吉が東京に進出する」という記事を発見したんです。で、「あらー! 大吉さん、東京に行くんだ……!」と思って。

――そこで複雑な思いが去来したと。ラジオでは大吉さんが清野さんに「メールはしたと思う」とおっしゃっていましたね。

清野 つまり大吉さんは2005年に上京されてるんです。ボクよりも上京が1年早かった。で、その記事を見て、「こりゃあ、自分もいよいよ動かなきゃいけないな」と思って、広島エフエムに辞表を出す決心がついたんです。

――大吉さんの上京が、清野さんの背中を押すことになったと。

清野 ハイ。それで2005年いっぱいで広島エフエムを辞めまして、晴れて2006年の頭に東京に出てくる、という感じですね。

広島にいた時は「ちょっと人気が冷えかけてきたかな?」ぐらいの印象だったんです。ところが東京に来たら申し訳ないですけど「冷え切っていた」感じで(苦笑)

【新日本プロレスリング株式会社/清野茂樹アナウンサー】

――ただ、清野さんが上京された2000年代中盤頃というのは、新日本プロレスの調子がだいぶ悪くなってきた時ですよね。

清野 そうなんですよ。いわゆる暗黒期の真っただ中と言いますか。

――なにはともあれ、まずは顔なじみも多い、新日本プロレスに挨拶に行かれたと聞いています。

清野 アレは、2006年1月28日だったかな? まずは後楽園ホールに挨拶に行ったんですよ。「とりあえず来ました」ということを社員の方に伝えないといけないなと思って。

――東京ドームが終わった後、新春シリーズの時に挨拶に行かれたと。

清野 で、コッチはもう勢い勇んで後楽園ホールに行くわけですよ。ところが、その後楽園ホール大会の雰囲気がもう暗くて暗くて……(苦笑)。まず、その状況にビックリしたんですね。なんというかボクは広島にいたので東京の現状がよくわかっていなかったんですよ。「広島で観るのとこんな違うんだ……」とショックを受けて。

――比較的、調子がいい部分しか見えていなかったというか。

清野 やっぱり東京と広島だとちょっと時差があるじゃないですか? プロレス人気が上がる時も少し遅れるけど、下がる時もちょっとタイムラグがあるんですよ。だから、広島にいた時は「ちょっと人気が冷えかけてきたかな?」ぐらいの印象だったんです。ところが東京に来たら、申し訳ないですけど「冷え切っていた」という感じで(苦笑)。

――なるほど。

清野 で、よっぽどショックだったのか。その後楽園ホールでどんな試合があったのか、全然覚えてないんですよ。

――あの記憶力バツグンの清野さんが、試合を覚えていないほどショックを受けましたか(笑)。

清野 実際、お客さんも全然入ってなかったですから。ボクはバルコニー席で見たんですけど、南側のオレンジ色の椅子がメチャクチャ目立っていて……。

――じゃあ、「俺、上京のタイミングを失敗しちゃったかな?」という気持ちも?

清野 いまだから言えますけど、正直ありましたね(苦笑)。「もしかしたら、俺はとんでもないところに来てしまったんじゃないか?」ってぐらい衝撃を受けて……。というのも、その大会は新日本プロレスの選手の2006年の契約更改が終わった、その一発目の後楽園だったんですよ。

――じゃあ、会社を辞めたレスラーが数人いた状況だった?

清野 いや、数人なんてものじゃないですよ。いわゆる大量離脱です。たしかそのタイミングで10人以上辞められたんですよ。藤波(辰爾/※最終的には2006年6月30日付けで退団)さんをはじめ、後藤達俊さん、ヒロ斉藤さん、吉江豊さん、西村修さんといった無我系の選手。あとは長井満也さんや成瀬昌由さん、柳澤(龍志)さんといった、いわゆるUWF系の選手たち。それから竹村(豪氏)さん、ブルー・ウルフさん。安沢明也さん。あと長尾浩志さんも辞めてますね。

じつはボク、菅林さんに新日本のリングアナを誘われていたんですよ

――一気に10人以上が離脱……。それは新日本ファンの気分もメチャクチャ落ちていた時ですよね。

清野 落ちてましたねえ。で、その異様にドンヨリした後楽園ホールの話をもう1個すると、当時はまだ副社長だった菅林(直樹、現会長)さんにも挨拶に行くわけじゃないですか。そしたら菅林さんが「ああ、清野さん! ちょうどいいところに来た!」と言うんですよ。
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著者プロフィール

1972年3月6日に創業者のアントニオ猪木が旗揚げ。「キング・オブ・スポーツ」を旗頭にストロングスタイルを掲げ、1980年代-1990年代と一大ブームを巻き起こして、数多くの名選手を輩出した。2010年代以降は、棚橋弘至、中邑真輔、オカダ・カズチカらの台頭で再び隆盛を迎えて、現在は日本だけでなく海外からも多くのファンの支持を集めている。

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