【TOKYOism】FC東京 橋本拳人 Route18〜終わりなき旅〜

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【©F.C.TOKYO】

オレンジ色に灯るタワーに背を向け、あの日、後戻りできない旅に出た。
その旅路で出会った道標に進むべき道を教わり、Surviveし続けてきた。
そうしてシナリオなき、前人未踏の地へと踏み込む。
ツリーが見下ろす街で、TOKYOの新たなアイコンの終わりなき旅は続く。
道は半ば、橋本拳人の終着地はまだこの先にある。

尽きることのない向上心

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―これまでのキャリアを振り返ると、毎回壁に阻まれるたびに、大きな成長を遂げてきたのでは?
「自分を客観的に見てきたつもりですし、常に生き残っていくためには何をすべきかを探してきました。高校生のときは、FWとしての得点能力に限界を感じていた。そのなかで、倉又さん(倉又寿雄/当時U-18監督)がボランチにコンバートしてくれたのが一つのキッカケとなった。そこからプレースタイルも変わっていった」

―『ボランチをやってみないか?』と言われたときに、どう思いましたか?
「コンバートされてすぐに、『オレのポジションになるかも』とは思いました。タイミングもあった。行き詰まっていたなかで、初めてボランチをやったときに、これでやっていけるってホッとした。FWのときから相手からボールを奪うことは得意なプレーだった。中盤だと、それをメチャメチャ出せることに気づけた。これからは、ボール奪取力を自分の持ち味にしていけると、そこで思えたことは大きかった」

―そのコンバートが、プロへの道を開きました。ただ、トップチームでいきなりポジションをつかんだわけではなかった。
「高校3年生のときからトップチームの練習にも帯同するようになったけれど、同じポジションにはすごい選手がいた。得意だと思っていたボールを奪うプレーでも、ヨネ君(米本拓司)や、今野(泰幸)さんには全くかなわないと思った。そこで、少し自信を失ってしまったのかもしれない」

―そういったときに、先輩やコーチを捕まえて、よくアドバイスを求めていましたね。
「懐かしいですね。僕は、人のアドバイスを素直に受け入れてきました。周りにすごい選手や、素晴らしい指導者がたくさんいた。もちろん見て学んだし、分からないことがあれば聞いて自分の力に換えていった。その作業の繰り返しでした。今でも、モリゲ君(森重真人)のやっているトレーニングを見て取り入れたりもしているし、若手が面白そうなトレーニングをしていたら遠慮せずに聞きます。新しいモノには興味がある性格だから、まずはやってみたいという精神は変わりません」

―かつての自分のように、若手からアドバイスを求められることはありますか?
「少ないかもしれません。でも、近くに普通ではなかなかできない経験をした人がいるなら聞きたいじゃないですか。結果を残してきた選手がどんなことをしてきたのか、どんな思考なのかを学べれば、少しでも近づけるかもしれない。それはサッカーだけに限らない。いろんな分野の人から話を聞いてみたいと思っています。知らないことを知るのは好きだし、向上心や知識を得たいという欲求は今も尽きません」

―もっと成長したいという気持ちが枯渇しないのはなぜですか?
「もともと才能がある選手ではなかった。人から何かを吸収したり、学ばなければ、この世界ではやっていけないと思っていました。常に成長しないといけないという危機感は持ち続けてきた。プロ入り直後は、やってやるという気持ちしかありませんでした。でも、1年目、2年目と全く試合に出られなくて、このままじゃダメだと気づかされた。良い選手になるためにも人のいいところを盗み続けていかなければいけない。考え方を変えないといけないと思ってからは、成長に対して貪欲になれたと思います。何でもチャレンジして吸収しようとしてきました。そうすることで、次第に成長している実感や、自信がついてきた。それが今も続いているのだと思います」

―たどってきた道を振り返ると、どこがターニングポイントだったと思いますか?
「もちろんプロ1年目もそうでしたし、思えば転機と呼べるところはたくさんあったと思います。ロアッソ熊本に期限付き移籍したときも、東京に帰ってきて試合に出られないときもそうでした。一つに絞るのが難しいほどたくさんのことが起きました」

途方もない基礎練習

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―少し時間を掛けて、その一つひとつを振り返ってもらえますか? まずは熊本への武者修行ですね。
「あのときは完全に自信を失っていた。自分がどういうプレーヤーなのかも忘れかけていた。何ができて何ができていないのかさえも、試合に出ていなかったので分からなかった。試合に出続けることで、自分の良さを思い返すことができた。ポジションはボランチとセンターバックで、1年半の在籍期間で60試合ぐらい出たのかな。毎週、試合に向けて準備していくサイクルも体に染み込ませることもできた。熊本では、全てが初めての経験だった」

―カテゴリーを下げることへの恐怖はつきものだったと思います。
「めちゃめちゃありましたよ。今でも覚えていますが、行きの飛行機で泣きましたからね。背水の陣のような気持ちだった。当時の熊本はJ2でも下位に位置していたチームだった。もしかすると、片道切符になるかもしれないという恐怖がいつも隣り合わせだった。それでも、自分に選択肢はなかった。東京で居場所はないから行ってこいと送り出された。ここで活躍しないと戻れないと思っていたし、相当な覚悟を持っていた。東京を出るのも、一人暮らしも初めての経験だった。誰も知らない土地で、十代の僕にとっては大きな試練だと感じていた」

―そこで、歯を食いしばって戦う選手たちに出会えたことも大きかったのでは?
「キタジさん(北嶋秀朗)、(藤本)主税さん、南雄太さんのような経験のある選手と出会えて、そこでもサッカーの話をとことんしました。アドバイスもたくさんもらいましたし、サッカーを追求するという意味では、いい時間を過ごせたと思います。何より練習もハードだったので、いろんな面で成長を感じられた場所でした」

―熊本で得た自信は大きかったと思います。
「移籍初年度のシーズンが終わったときに、東京からは戻ってこいと言われたが、そのときは自信がなくてもう1年やらせてくださいと熊本に残りました。2年目が終わったときに、試合経験も積んで、フィジカルもついて、これならいけるという自信もつけて帰ってきた。でも、全く試合に出られなかった。紅白戦の外で、安間さん(安間貴義/現コーチ)たちとボール回しをひたすらやっていた。それがきつかった。心が折れる寸前だったし、また気持ちがなえかけていた。でも、そのときの安間さんとの練習からは本当に多くのことを学んだ。自分に足りないものを一から教えてくれたし、いろんなことに気づかせてくれたのが安間さんだった。紅白戦には出られなかったけれど、僕にとって大切な時間だったと思います」

―小平グランドの端で基礎練習からやり直す姿は印象に残っています。
「安間さんが、歯に衣(きぬ)着せぬ言い方をするんですよね(苦笑)。真顔で、『本当に下手だね。こんなプレーだとスタンドはため息だよ』って。ミスをする度に、『ハイ、ため息』って独特の言い回しが続いた。それでも、淡々と反復練習を積み重ねた。あんな言い方されると、ふざけるなってなる選手もいると思いますよ。なにくそという気持ちもあったかもしれない。でも、それ以上に感謝の思いのほうが勝っている。ダメなことはダメとストレートにズバズバと言ってくれる人はなかなかいない。それは自分でも気づけなかったことだったので、そこを改善できればもっと良い選手になれると思えた。自分の伸びシロはここだという思考になれたのも安間さんのおかげだった。(佐々木)渉(現カマタマーレ讃岐)ともよく一緒に練習していたんですが、1年目の渉がメチャクチャ褒められるのに、その隣でもうボロカスに言われた。だからこそ、足りないところがあると練習にも打ち込めた。安間さんは居残り練習にも付き合ってくれたし、2人でたくさんの映像も見て課題に向き合うことができたのは貴重な時間でした」

―地味なあの練習を数カ月単位ではなく、ずっと継続したことがすごいと思います。
「それで自分が良くなったと感じられたことが一番だと思う。そういう基礎が大事だとあらためて思えた。端から見たら『何、あの練習』って思いますよ。対面でボール蹴っているだけだろって思うメニューもありましたからね。今でも感覚を取り戻すために、当時の練習を復習することがある。それだけ大切なトレーニングでした」

持っていない人生の変え方

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―そして、与えられたチャンスで即結果につなげた。J1デビュー戦の松本山雅戦は忘れられない試合です。
「あれは本当に大きかった。たまたまけが人が多く出て、自分の本職ではない左MFでの出場だった。そんなポジションで試合に出るのも初めてだった。本当にやれるのか不安もあった。でも、これで決めなきゃ次がないって、あのときは感覚が研ぎすまされていた。もう得点することしか考えていなかった。ちょっとやそっとのいいプレーではチーム内の序列は崩せないと思っていたので、点以外いらないぐらいのイメージで試合に入った」

―かつてFW失格の烙印(らくいん)を押された選手が、あの大事な場面でゴールを奪うのかと、ただただ驚いた試合でもあった。
「J1初先発、初出場、初シュート、初ゴールでしたよね(笑)。それまで“持っていない”と思っていた。でも……あの試合で、突き詰めてやってきたことは自分に返ってくると思えました」

―人よりも時間が掛かっても、地道にチャンスを引き寄せてきた。そういうキャリアの歩みを続けています。
「努力をしていなければ、ずっと“持っていない”人生だったと思います。やるべきことをコツコツ続けていけば、すぐにではないかもしれない。いつか自分に必ず返ってくる。そう信じて、やり続けてきました」

―2017シーズンに在籍した大久保嘉人選手からは、試合中に何度も縦パスを入れるように言われ続けていました。
「縦を強く意識させてくれたのは、間違いなく嘉人さんです。それまで見えなかったものが見えるようになった。試合中に『いまはここ、いまはここ』と意識するべき場所を細かく伝えてくれた。それは素直に自分に足りないことだと思った。嘉人さんが持っている経験や知識は本当にすごい。時に厳しい言い方をされたこともあったけれど、それも自分の成長を考えればありがたいことだった。それは素直に受け入れていました」

―なぜ、サッカーに対して素直でいられるのでしょうか?
「若いときに、人からのアドバイスや、人から吸収して成長してきた経験があったからだと思います。知らず知らずのうちに、それがクセになっていたから、まずは受け入れるという考え方になった。だから、ここを伸ばしたい、ここはもっと良くしたいという改善点は常にあります。それは自分を分析しているからこそ。どうしたら成長できるかをいつも考えているし、周りには厳しい目で見てくれる人もいるので。最近は自分の強みをさらに磨きたいと思っています」

―昨シーズンは、日本代表にも初選出されました。それまでの地道な作業の連続がいまにつながっているのだと思います。
「日本代表に入ったときも、地道にコツコツやってきたことが良かったと思えた。(長谷川)健太さんが監督に就任して、ボランチに固定されたこともターニングポイントになりました。ただ、それ以前の指導者のみなさんが、いろんなポジションで自分を起用してくれたことも大きかった。それも、今の自分には必要な時間でした。いろんなポジションを経験したことも、プレーの幅を広げる意味で今に活きていると思います」

―今年でプロ10年目になりました。際限なく成長しようとしてきて、自分が目指す場所はどこにありますか?
「ワールドカップには絶対に行きたいです。海外クラブに挑戦したい気持ちもあります。上にいけばいくほど、もっと上へという気持ちが芽生えてくる。逆に、まだまだ足りないとも気づかされます」

―ある程度のところで、満足する選手もいますが、それがないのはなぜだと思いますか?
「そうは絶対になりたくない。もういいやとか、ここぐらいでいいでしょとは一生ならないと思う。そういう考え方になったのは、熊本に行ったことが大きかったのかもしれない。あのときは、このままではサッカー選手としての道が閉ざされるかもしれないという不安がちらついた。当時はJ3もなく、J2の下位クラブで通用しなければ、プロとしてのキャリアを諦めなきゃいけないという岐路に立たされていた。その場所を見たからこそ、はい上がろうと思って上をめざした。その経験は大きいと思う」

終着地なき道程

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―これまで世界大会とは縁遠いキャリアを過ごしてきましたが、ワールドカップはどんな場所ですか?
「憧れですね。2002年の日韓ワールドカップを見て、絶対にここに出ると思ってきた。まだまだやるべきことは多いですし、ワールドカップに出場することは簡単なことではない。世界相手に戦わないといけないと考えると、いまの成長速度をもっともっと上げていかないと。1、2年なんてあっという間で、気づけばすぐに終わってしまうので」

―ワールドカップの舞台に立って活躍するイメージはできていますか?
「できています。世界と、互角以上に戦いたいと思っています。ワールドカップで自分のプレーが通用する姿を見せたいし、あの舞台で活躍して力を証明したい。一日、一日やれることは限られてくる。その限られた時間のなかで最大限の努力をしなければ、そこにはたどり着かない。やるべきことをやることも大事ですし、世界で戦うイメージを常に持ち続けることができるのか。そこは意識してやり続けたい」

―そう考えると、ついつい周りが見えなくなって自分の世界に入り込みがちですが?
「昨年ぐらいからそうなりそうなことがありました。正直、自分のことだけに集中したいと思うときもあります。でも、チームスポーツなので、みんなとコミュニケーションをとることはすごく大事だと思っています。声で引っ張るタイプではないので、プレーでしっかりと見せていきたいし、それが自分のできることだと思っています。自分のことと、チームのことを分けて考えるようにしています。自分では、その良いバランスも見つけられるようになってきたし、感情に左右されなくなってきたとは思います」

―結婚したことは大きい?
「結婚したからサッカーを頑張ろうという思考にはならない。もともとサッカーは頑張ってきたし、大きく変わることはありません。ただ、すごく支えてもらっているので、自分がいいプレーをしたり、チームが良い結果を収めたりすれば、奥さんも喜んでくれる。頑張っている姿をしっかりと見せたいし、感謝の気持ちはできるだけ伝えたいと思っています」

―15年前に、石川直宏CCと手をつないで味スタに入場したサッカー少年は、大きくなって同じピッチに立った。かつての自分と同じような後輩が出てきたら面白いですね。
「ナオさんと手をつないで入場したときはすごくうれしかった記憶が今も残っている。毎回手をつなぐ度に、そういう感情を抱いています。この子といつかボールを蹴るかもなって。ナオさんにも言われたんですよ、自分もそうやって一緒にプレーできる選手が現れるかもしれないって」

―その2人の18番は2011年10月19日と、8年後の10月19日にゴールを奪ったこともビックリしました。
「あれは奮えました。あんなことってあるんですね。18番を引き継いだときは、本当に重かった。でも、最近は自分の番号になってきたなと思えるようになってきました」

―最後に、今シーズンをどんな一年にしたいですか?
「まずは、1年を通して個人の能力を最大限に上げていきたい。チームとしては、J1リーグとAFCチャンピオンズリーグのタイトルを獲りたい。そのためにも、チームの勝利を手繰り寄せる選手になりたい。アカデミーで育ってきたからこそ、このチームへの愛着は誰よりもあると思っている。そういう選手がチームを引っ張っていくことで必ず強くなれると信じています」

【©F.C.TOKYO】

text by BABA KOHEI
photo by ARAI KENICHI,SASAKI MASAHITO
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著者プロフィール

FC東京は、「東京都」全域をホームタウンとする、日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)に所属するプロサッカークラブ。

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