浦和レッズはどこへ向かうのか

浦和を離れる決断の背景…この夏、関根貴大にどんな心境の変化があったのか?「もう、涙が止まらなくて…」

菊地正典

その時点では浦和に残るつもりだった

トップ昇格を果たした14年の関根。中学時代から17年在籍したクラブを離れる決断は、決して簡単ではなかった 【(C)J.LEAGUE】

——涙が止まらなかった?

 僕は昔から曺さんを知っていましたけど、しっかり話したのはそのときが初めてで。もう、自分が考えていたことをすべて言語化してくれた感じでした。自分が浦和のためにやらなければいけないものを、何だろう……きれいごとを並べている自分がいたというか、クラブにいる長さや自分の立ち位置を含めて、こうあるべきだからこうしよう、自分がこうしないといけない、というのを言い訳にしていた部分もあって。

 それを曺さんは見透かしていて、「それはお前が本当にやりたいことなのか?」「本当にやりたいことはこうじゃないのか」って伝えてくれました。そういうことを真っ向から話してくれた人は初めてだったんです。すごく気持ちよかったし、だからこそ自分の中で消化しきれていなかったものが一気に噴き出したような感覚がありましたね。結果、一緒にはやれなかったけど、本当に感謝したいです。その時間というか、言葉にはすごく感謝しています。

——ただ、曺監督は関根選手に浦和レッズに残ってほしいから話をしたんですよね?

 そうなんですよ。一番グッときたのは、「実はここでプレーするのが苦しいんじゃないか? でも、俺はお前をここでどうにかしたい」という言葉でした。「お前が自分を押し殺してやってきたのに評価されず、苦しんだり、いろいろな思いを抱えているかもしれないけど、そういう人たちにあらためて評価してもらったときに、お前はもう一度、あのころの自分を取り戻せる。他のチームで一緒にやって成功するのと浦和で成功するのとでは価値がまったく違う」って。そういう話を聞いて「日本に残るならもう一度、浦和で自分の価値を高めないといけない」と思いましたし、すっきりしたんですよね。

 だから、その時点では浦和に残るつもりでした。1年残っている契約を全うする。この人と一緒にやって契約が終わるならそれまで。この人と一緒にやることが何年分もの経験になる。そう思いました。曺さんも「インサイドハーフで使う。そこで絶対に生きるから」と言ってくれて。自分もいままでの経験値を凝縮させながら、また新しいことができるんじゃないかと思って、めっちゃワクワクしていたんですよ。ただ、先ほども話したように右サイドバックでプレーすることになる可能性を消せなかった。

 それに、曺さんから「もっと自分を信じてあげろ」と言われて、もう一度信じたいなと思いました。そんなとき、シドニーFCからオファーが届いて、もう一度自分を信じるなら、このチャンスを逃しなくないなって思ったんです。

——曺監督は関根選手に浦和に残ってもらうために話をしたはずなのに、曺監督の言葉が関根選手の移籍の後押しにもなったのではないですか?

 まさにそうです。曺さんじゃなかったら移籍を即決していたと思うので、すごく複雑でもあるんだけど、もっと自分を信じた結果、海外でプレーしたいという思いが膨らんだという面があります。

 あと、妻も「いつかまた海外で暮らしたい」という希望を持っていたんです。それもありましたね、海外移籍を決めるにあたっては。そうそう、曺さんとのミーティングはオンラインだったので妻も聞いていて、妻も感動していましたね(笑)。

 曺さんとのつながりって濃くはないけど意外と長いんです。ずっと興味はあったというか、一緒にやってみたいというのは妻にも話していました。だから、何のいたずらなのかなって。「なんで(就任が)いまなの?」って(笑)。

ヨーロッパでは楽しむ余裕がなかった

苦労も多いが、そうしたストレスも良い刺激だと笑う関根。欧州での苦い経験を生かし、オーストラリアでの生活を楽しんでいる 【関根貴大】

——数年前だったらまた違う選択だったかもしれない?

 半年前でも違ったと思いますよ。でも、いまはいまですごく楽しい。誰も自分のことを知らない地で、自分を再び築き上げていくことに魅力を感じています。知らないからこそできることもあると思うので。

——自分を築き上げていくにはコミュニケーションも大事だと思います。浦和でも外国籍のチームメイトと英語で話していましたし、シドニーFCでもインタビューは英語で対応しています。言語は問題ないですか?

 いや、全然です。勉強はもちろんしていましたけど、こっちに来てびっくりしました。思っていた英語じゃないんですもん(苦笑)。オージーのアクセントが強すぎるんですよね。アメリカに行ったときは「喋れるな」と思ったんですけど、オーストラリアの人はスラングが多いらしく、単語を短くするから聞き取りにくくて。2カ月くらい経って、最近は割と聞き取れるようになってきました。だから楽しいですよ。喋れないって相当じゃないですか。普段の生活からすべてにおいてストレスが増えるわけですよ。

——楽しいとは真逆の印象です(笑)。

 でも、ストレスも自分にとっては良い刺激なんです。日本はすべてにおいて快適じゃないですか。こちらではWi-Fiを契約するのも、銀行で口座を作るのも、携帯電話を契約するのも、全部大変ですからね。なにか1つやるだけで1日が終わる。なかなか刺激的ですよ(笑)。

——それを嫌だと言う人もいるし、選手としての才能はあっても、言葉や生活がうまくいかなくて帰国を余儀なくされる選手もいますよね。

 でも、それをもう1回やりたかったんですよね。ヨーロッパで失敗したから。「その経験値を生かしたい、無駄にしたくない」と以前から思っていました。ヨーロッパではそこを楽しむ余裕がなかったんです。すべてサッカーのために行ったようなものでしたし、もちろんいまもサッカーのために来ましたけど、大人になっていろいろなことを経験しているというのは大きいですね。

——こうして話を聞くと、移籍をめぐるこの数カ月の出来事や関根選手の思いは、まさに「人生」だなと思いました。

 そう思ってもらえたら僕の勝ちだなと思います。そうじゃなくて、どっちのほうが良かったと言い切られちゃったら、自分の価値はそんなものだったのかと感じるかもしれないですね。

——これからの関根貴大はどうなっていきますか、と聞こうと思っていましたが、いまの発言が答えですね。

 そうですよ、本当に。みんながどう思うか、みんなにどう思わせられるか、ですね。埼玉スタジアムって本当に特別な場所で、良い意味でも悪い意味でも自分が自分じゃなくなる感覚があった。そういう場所でプレーできるのは本当に幸せなことでしたけど、それとはまた違う場所で、違う楽しさを味わいながら、自分のやりたいことを追い求めていきたいです。この移籍も自分のために自分で決断しましたし、1年後、2年後、3年後……とつながっていけばいいですね。

(企画・編集/YOJI-GEN)

関根貴大(せきね・たかひろ)

1995年4月19日生まれ、埼玉県鶴ヶ島市出身。中学入学と同時に浦和レッズのアカデミーに加入。ユースを経て、14年にトップチームに昇格。ミハイロ・ペトロヴィッチ監督(当時)に得意のドリブル突破を評価され、ルーキーイヤーから右サイドの定位置を掴んだ。17年夏にはドイツのインゴルシュタットに、18年夏にはベルギーのシント=トロイデンに移籍し、19年夏に古巣に復帰した。長らくサイドアタッカーとして活躍したが、近年はインサイドハーフやサイドバックを務めるなどプレーの幅を広げ、25年シーズンはチームキャプテンも務めた。今夏、オーストラリアのシドニーFCに活躍の場を移した。

2/2ページ

著者プロフィール

福島県出身。埼玉大学卒業後、サッカーモバイルサイトを運営するIT企業を経て、フリーランスに。2025年はサッカー専門新聞『EL GOLAZO』でジェフユナイテッド市原・千葉の担当記者を務める傍ら、サッカー日本代表や過去に担当した浦和レッズや横浜F・マリノス、川崎フロンターレなどJリーグを中心に取材している。著書に『浦和レッズ変革の四年 〜サッカー新聞エルゴラッソ浦和番記者が見たミシャレッズの1442日〜』(スクワッド)、『トリコロール新時代』(スクワッド、三栄書房)がある。

当サイトには一部アフィリエイトリンクが含まれています。

リンクから商品・サービスをご購入いただいた場合、スポーツナビに収益が発生することがあります。

新着記事

編集部ピックアップ

コラムランキング

おすすめ記事(Doスポーツ)

記事一覧

新着公式情報

公式情報一覧

日本オリンピック委員会公式サイト

JOC公式アカウント