プロ野球界で希少な“親子鷹”度会家の物語 ハマの元気印・度会隆輝を育てた母の揺るぎないエナジー

瀬川ふみ子

プロ3年目で自身初の100安打をマークするなど飛躍を遂げる度会隆輝 【写真は共同】

 長嶋茂雄-長嶋一茂、野村克也-野村克則などが思い浮かぶ親子二代NPBプレーヤー。現役選手では、山﨑福也(日本ハム。父・章弘)、太田椋(オリックス。父・暁)、度会隆輝(DeNA。父・博文)、田中陽翔(ヤクルト。父・充)ら。多くの“ジュニア”選手がいるMLBと比べると、少ない、と言えるのかもしれない。

 そんな希少な二代でNPB入りした親子の中から、度会親子にスポットを当て、プロ野球選手だった度会博文さんが、また、プロ野球選手の妻である祥子さんが、息子をどう育て、“親子鷹”が誕生したのか、ここまでの歩みを紐解いてみた。

度会夫妻の出会いと夢見たプロの舞台

「たまに、家族4人が神宮球場に集まっちゃうことがあるんです」と笑顔で話す度会祥子さん。ユーティリティープレーヤーとして、ヤクルト一筋15年の現役生活を終えた後、コーチ、球団広報、スカウトなどを経て、現在はヤクルトアカデミーのヘッドコーチを務め、少年少女たちの野球指導に当たっている度会博文さんの妻であり、二人の息子たちを育ててきた母。
 
 祥子さんは、カフェで働いてきた経験を生かし、大好きな珈琲を提供するキッチンカー「T-gauge Coffee」を営む。神宮球場のプロ野球開催日には千葉県市川市からキッチンカーを運転してきて、バックスクリーン後方でコーヒーやスペシャルドリンクを販売している。

 長男・基輝さんは、父と同じ中央学院大に進み、首位打者を2度獲得、4年時には古田島成龍投手(オリックス)らと明治神宮大会で優勝し日本一に。社会人野球のJPアセット証券(現在は休部)で野球を続けた後、現在は神宮球場の販売部で働いている。

 次男・隆輝は、言わずと知れたDeNAの主力選手。ヤクルトとの試合時には、神宮球場にやってくる。

 そのタイミングで博文さんも神宮球場で仕事だったら、家族4人が神宮に集合!となる、なかなかない、すごい家族だ。

 度会夫妻の出会いは高校時代。八千代松陰高校(千葉)の同級生で、小さい頃から野球が大好きで、真剣に野球に取り組んでいた博文さんと、中学時代は新体操、高校以降はバレエに夢中だった祥子さんは、お互いスポーツをしていることで話も合ったし気も合った。

 高校卒業後も、お互い野球とバレエで忙しく、旅行に行くなどという時間もなし。出かけるところはもっぱらバッティングセンター。「やるからには徹底的にやろう!」という祥子さんが運転しては150キロのマシンを打ちに行っていたそうだ。

「大卒でプロになれなくても社会人で野球を続けてプロを目指したい」と話していた博文さんは、そんな祥子さんの応援もあって、中央学院大2年時から頭角を現し、千葉県大学野球リーグで首位打者3回、ベストナイン4回、4年秋はMVP、大学通算打率.475、9本塁打の活躍が評価され、4年時のドラフトでヤクルトから3位指名を受ける。「ひたすら野球に真面目な人だったから、夢を叶えられたと思う。本人の努力ですよね」と祥子さんは話す。

「実際、本当にプロ野球選手になるなんて思っていなかった」という祥子さん。博文さんが指名されたときは、「もちろん嬉しいんですよ。でも驚きの方が先! ずっと『ヤクルトに入りたい』って言っていたから、『こんな近くの人がプロ野球選手に本当になるんだ』っていう思いとか、『本当にプロ野球選手になっちゃうんだ』っていう複雑な思いとか、いろんな気持ちがこみ上げてきて、両手をあげて喜んだわけでもなく、ただ泣いたことを覚えてます」と振り返る。

 プロ入り後、4年間はファーム生活が続き、4年目のシーズン終了後の1997年12月に結婚。翌1998年、当時の野村克也監督が、ファームで2年連続3割以上打つ活躍をしていた博文さんを一軍に呼び、開幕スタメン。そこから2008年までの11年間、チームになくてはならない選手として活躍することになる。

野球に夢中になっていった隆輝

 1999年に長男・基輝さんが誕生、3年後の2002年に次男・隆輝が誕生。周りから「プロ野球選手の子だし、男の子なんだから野球をやらせるのが当たり前」のように言われていたそうだが、祥子さんはその気ではなかった。

「汚れたユニホームをゴシゴシして洗濯するのが嫌だったから(笑)」という理由と、もう一つ、「他の世界だってあるし、もしかしたらダンスとか他のスポーツをやりたいって言うかもしれない。可能性は広げたいから、『野球野球』って押しつけることはしない」と。

 祥子さんがゴルフのおもちゃやサッカーボールを渡すと、「パパはサッカーボールをそーっと隠してね、野球セットを買ってきてボールを転がしてゴロ捕りをさせたりしていました」と祥子さん。博文さんの方は、息子たちに野球をしてほしかったようだ。

 そんな中、祥子さんはプロ野球選手として晩年を迎えていた父親の姿を幼い二人の息子に見せようと、毎日のように球場に連れて行った。千葉県の市川市から、神宮球場はもちろん、東京ドーム、横浜スタジアム、ファームのときは戸田、浦和、所沢など。さすがに関東圏外までは行かなかったが、幼稚園から帰って来て、その日のうちに帰って来られる球場であるなら、例え100キロの道のりでも車を走らせた。「パパが頑張っている姿を、子どもたちに一つ残さず見せたかったんです」

「隆輝をおんぶして、基輝を抱っこして、球場に着けば基輝は椅子に座ってなんていないので、それを追いかけて……基輝が『トイレ!』と言えば、ファンの方が隆輝を見てくれたりして、周りの方に甘えたりお世話になりましたね」。毎日のように球場に行くことが当たり前になって、次第に野球に興味を持つようになり、二人はリュックを背負い『やきゅーいこ!』と目を輝かせたそうだ。

 博文さんは試合から帰宅すると、自宅の外から見えない場所に夫婦で作ったケージで硬球を、家の中では鉄心入りスポンジボールを打ち込んでいた。ボールを上げたり、翌日対戦しそうな投手をイメージしながら投げる真似をするのは祥子さん。「生活がかかっていましたから、私も必死でしたよ」と笑う祥子さん。そんなパパとママの姿が楽しそうに見えたのか、毎日野球をすることが当たり前と思えたのか、自然と「やきゅーやきゅー」と言うようになり、隆輝は3歳のとき、「大きくなったらメジャーリーガーになる」と言うようになった。

 長男・基輝さんが小学1年生になった頃、学童軟式チーム・柏井ユナイテッドに入り、3歳の隆輝も一緒について行った。ボール遊びをしたりお昼寝をしたり。「今日は行かない」という日は祖母と近所の公園に遊びに行ったり。

 小学生になる頃、「僕もチームに入りたい」という言葉を受け、「練習を休まない」という約束を交わして入部。小さい頃からパパの姿を見ていたからか、投げる、捕る、打つ、のフォームはバッチリ。上級生に負けない活躍を見せた。

 小学4年生からは硬式の東京北砂リトルへ。小学6年時にはヤクルトジュニアに選出され、硬球から軟球に戻っても、打撃も守備もそつなく対応した。

 中学に入ると、強豪・佐倉シニアへ。博文さんは、市川市の自宅から43キロもある佐倉市のグラウンドまで通えるのか、と心配したそうだが、3歳上の基輝さんがちょうど拓大紅陵高校に入寮する時期、祥子さんは「隆輝が入りたいって言うなら、私は行かせる。送迎するのは私。ちゃんとやる!」と説得。母子は3年間を全う。3年時にはチームの中心選手として全国制覇を成し遂げ、隆輝はU-15日本代表選手にまでなった。

 数多くの高校からの誘いがあった中、祥子さんは「近くの高校がいいじゃん」と思っていたそうだが、博文さんが「横浜高校なんて誰もが入れる高校じゃないから、誘ってもらえるなら行ったらいいんじゃないか」と背中を押した。祥子さんも、隆輝が小学6年生の頃から「横浜高校に行きたい」という思いを知っていたから、隆輝の意思を尊重した。

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