「奇跡のバックホーム」の甲子園決勝で劇的同点弾も敗戦 元熊本工選手が30年後に語る「銀メダル」の意味
実は父・幸明にも、似た経験があった。1996年夏、熊本工の1年生レギュラーとして甲子園決勝を戦い、準優勝。さらに3年夏も熊本大会決勝で敗れた。その時に手にしたメダルは熊本の実家に置いたままだという。
父と息子は、ともに決勝で敗れ、銀メダルを手にした。もちろん、二つの敗戦は別のものだ。ただ、その経験がその後の野球に何を残したのか。幸明の野球人生をたどっていくと、一つの生き方が見えてくる。
準優勝とは何か。「あと一つ」で負ける悔しさは、その後の人生にどう生かされるのか。
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1年生で経験した甲子園決勝
熊本工―松山商。松山商に1点をリードされた9回裏2死走者なし。熊本工の打席に立ったのは、1年生の幸明だった。初球を振り抜くと、打球は左翼席へ。同点本塁打となった。
高校1年生が、甲子園決勝の土壇場で試合を振り出しに戻す。のちに「松坂世代」と呼ばれる世代の一人として、早くから全国に名前を知られる存在となった。
しかし、試合はそのまま熊本工には傾かなかった。
延長10回裏1死満塁。熊本工の右飛で三塁走者が本塁を狙ったが、松山商の右翼手・矢野勝嗣の好返球でタッチアウト。後に「奇跡のバックホーム」と呼ばれるプレーとなった。
11回表には、左翼を守っていた幸明が左翼前への打球を処理できず、記録は二塁打。この回に熊本工は3点を失い、3-6で敗れた。本塁打を打った選手として脚光を浴びる一方、守備では失点につながるプレーも経験した。
幸明は試合後、泣いていた。
「悔しかったですし、みんなに申し訳ないという気持ちもありました。あれだけ泣いたのは、後にも先にもあの時くらいです」
ただ、現在の幸明が自身の野球人生で原点として挙げるのは、この甲子園決勝だけではないという。より自分自身と向き合うことになったのは、3年の夏だった。
主将として再び決勝で敗れる
幸明は当時の自分について、はっきりとこう話す。
「あの頃の自分は、とにかく『欲』が強かった。ヒットが欲しい、自分が結果を出したいという気持ちばかりでした。欲ではなく、積極性だったら良かったんですが、欲がありすぎちゃって……。自分の結果しか考えていないと、勝負所でのつなぎだったり、周囲への気配りだったりができなくなるんです。自分の数字を残すことより優先しなければならない仕事がある。主将として最後の夏を終えたとき、決勝で負けてそこに気づきましたね」
この経験は、その後の幸明のプレースタイルにも表れていった。
熊本工卒業後、幸明は法政大へ進み、日本通運で13年間、35歳までプレーした。
高校を卒業したあとは違う野球を求められた。2番打者として走者を進める。送りバントを決める。自分がアウトになっても、チームにとって必要な役割を果たす。
「自分が打つことより、チームがどうしたら点を取れるかを考えるようになりました。自分に求められている役割は何なのか、ということですね」
甲子園決勝で本塁打を放った幸明が、その後は「つなぐ」技術を磨いた。
高校時代には、自分の結果を求める気持ちが強かったが、その反省があったからこそ、大学、社会人では別の価値を持つ選手になることができたと考えている。
1996年の決勝を振り返りながら、幸明は「悔しい敗戦は、後の人生に必ずつながってくるんです」と言い切った。