オリックス1位指名を拒否、3年後に巨人入り 2年連続最多勝左腕が人的補償で移籍へ 巨人軍で終われなかった男たち【前編】
夢を叶えても、いつかその夢からは醒める
現代の子供たちがロサンゼルス・ドジャースの大谷翔平に憧れるように、まだ日本でメジャーリーグが遠かった時代は長嶋茂雄と王貞治の“ONコンビ”とYGマークが球界の象徴であり、頂点だったのだ。いつか、地上波テレビで全国放送される巨人で活躍して、巨人のユニフォームのまま引退したい――。昭和のドラフト会議では、「巨人入り」を熱望して、他球団の指名を複数回にわたり拒否するケースや浪人生活を選択するアマ球界のスター選手もいたほどだ。平成に導入された逆指名ドラフトやFA制度では、大物選手が続々と巨人の一員となった。
一方で誰もが巨人に入りたがるということは、チーム内の競争も激化する。ドラフト1位で入団しようが、FAの大型契約で移籍してこようが、熾烈なポジション争いが待っているのだ。毎年のように大型補強が繰り返され、最後は居場所を失い、他球団へ去っていった選手も数多い。西武ライオンズの四番の座を捨て、FA権を行使して、少年時代から死にたいくらいに憧れた巨人入りの夢を叶えた清原和博は、引退後に自著でこう書いた。
「野球選手の夢の戦場だと思っていた場所は、裏から見れば大人の論理と冷酷な計算が支配する寒々しい場所だった。僕は血の通った同じ人間ではなく、単なる使い捨ての商品のように扱われた。今現在の僕の気持ちを言えば、それでも移籍して良かったと思っている」(「男道」清原和博/幻冬舎)
清原ほどのスーパースターでも、巨人では栄光の日々だけでなく、怒りを抱え、屈辱にまみれた。それでもなお、多くの選手が東京ドームでプレーすることを望んだ。だが、巨人入りの夢を叶えても、いつかその夢からは醒める。ある意味、夢が終わり、他球団でプロ野球人生という現実が始まるのだ。
オリックス1位拒否、3年後に晴れて巨人入り
この内海や、日本ハムとロッテのドラフト指名を二度拒否して巨人入りした長野久義、日本ハムの指名を蹴り浪人生活を送り、翌年に伯父の原辰徳監督率いる巨人から1位指名を受けた菅野智之(現ロッキーズ)。1980年代生まれの彼らが、巨人に入るために他球団のドラフト指名を拒否した最後の世代になるのではないだろうか。現代では、いかに巨人に入るかではなく、いかに早くメジャーリーグへ行くかにアマチュア選手の興味も移っている。
内海は、決して順風満帆なプロのキャリアを歩んだわけではない。1年目から20勝を挙げた上原浩治や日本シリーズで田中将大に投げ勝った菅野智之とは対照的に、時間をかけて巨人のエースへの階段を登っていった。1年目はじっくり二軍で育成され一軍未勝利、2年目に初勝利を挙げるも4勝9敗、防御率5.04と主力投手として定着するまでに時間がかかった。当時、堀内恒夫監督率いるチームは他球団から獲得した大砲を打線に並べる暗黒期と呼ばれていたが、堀内監督は結果の出ない内海を我慢強く先発起用し続けた。