斎藤佑樹が振り返る甲子園V後の“落とし穴” 現役最後の登板で涙を誘った清宮幸太郎のひと言
20歳の時の斎藤と出逢ってからは、勝った試合も負けた試合も、勝ち負けがつかなかった試合も、彼のピッチングを球場で観て、感じた疑問をぶつけてきた。
時は流れ、2021年11月7日、日曜の恵比寿──。
この日、引退したばかりの斎藤とランチをともにした。そこでぼくは彼に「ピッチャーとしての斎藤佑樹を描きたい」と伝えた。そのためにあらためて話を聞かせてほしい、それがプロに入ってから引退するまでの斎藤を見届けたぼくが成すべき仕事だから、と想いを届けた。だからこの一冊は、そんな斎藤との約束が結実した賜物だと思っている。
「ハンカチ王子と呼ばれて 斎藤佑樹 54勝の記憶」からプロ引退年の一部を抜粋して掲載します。
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野球の神様からのご褒美
プロ野球選手ですから一軍で投げなければダメなんですよね。つまりファイターズでは札幌で投げていないとダメなんだと、当然ながらずっと思っていました。でも残念ながら、僕は二軍……鎌ケ谷で投げることが多くなってしまいました。だからこそ、僕の心のなかの鎌ケ谷にはいろんな想いがあります。たくさんの思い出が詰まった鎌スタで最後、登板の機会をいただけたことはものすごくありがたいことでした。
あの日の登板は6回から、バッターひとりと決まっていました。5回が始まるとブルペンで準備を始めます。たぶん、40球近く投げたと思います。投げ終わった時、柿木蓮がタオルと水を手渡してくれました。リリーフピッチャーがブルペンを出て行くときって、他のピッチャー陣がつくってくれた花道を通り抜けて、拍手で送り出されるんです。ああ、これも今日で最後なんだなと思いました。それでもわりと冷静だったのに、マウンドに着いた途端、めちゃくちゃ感情を揺さぶられてしまいます。(早実の後輩、清宮)幸太郎のせいです(笑)。僕がマウンドに上がったら、幸太郎が泣きながら歩み寄ってきて、耳元で「楽しんで投げてください」って言うんです。このまっすぐな言葉に、絶対に泣かないと思っていたのに、涙が溢れてきちゃいました。
幸太郎は試合が終わってから「結果に追われるスポーツだからこそ、最後くらいは思い切り楽しんでほしいなと思ったんです」と言っていました。ホント、幸太郎らしい言葉ですよね。引退することを決めてあらためて思ったのは、僕はいろんな人に恵まれたな、ということでした。プロで11年やってこられたのはそういうたくさんの人が周りにいてくれて、いろんな形で支えてもらっていたからだと、つくづく思います。
その約2週間前、僕は平塚でのベイスターズとの二軍戦(9月20日)で2番手として投げています。その日は試合前から特別に右肩が痛くて、右腕が肩のラインより上に上がりませんでした。上げようとすると痛いし、シビれてくる……そんな状態でも、僕に投げないという選択肢はありませんでした。
プロ11年目の2021年は右ヒジを痛めていたのに契約をしてもらって、もし結果が出なかったら野球をやめる覚悟は持っていました。だからどんな形であってもシーズンの最後まで投げ続けなければいけないし、それがチームに対する僕の最低限の責任だと思っていました。
2番手として3回からマウンドに上がったんですが、1イニング(21球)を投げて、覚えているのはストレートのスピードが意外に出ていたということです。痛み止めを飲んだらそれが効いたのか、ブルペンであんなに痛かった右肩がマウンドへ上がったら痛くなくなったんです。しかも平塚の球場はマウンドが軟らかくて土が掘れるから、体重が前に乗りやすくなって腕が振れる感覚になるんです。そのせいでスピードも138キロまで出て、「おっ、今日は行けそうだな」って、ちょっとだけ思っちゃいました。
でも、そういう時こそ丁寧にいかなきゃいけないのに、腕が振れる分、コントロールがアバウトになって……そんなことを何度、繰り返してきたんでしょうね(苦笑)。たしか1点をとられたのかな。試合後、病院で検査を受けた結果、右肩の関節唇と腱板が損傷していると言われて……何となく、そういう診断が下るんだろうなということはどこかで覚悟していました。
ただ、気持ちのどこかで画期的な治療法があるんじゃないか、なんて期待する自分もいて……右ヒジの靱帯を手術せずに治せると言われた時のように、この肩をどうにかしてくれるんじゃないかという期待を一瞬、していました。でも、そんな魔法のような治療法があるはずもなく、すぐに、やっぱりダメなのかと……それでも頭の半分はそうやってもう無理だなと考えながら、もう半分では、シーズンが終わったら1カ月、地道にストレッチをして治療に専念すればどうにかなるのかな、なんてことをやけに現実的に考えていた自分もいたんです。
希望と絶望の気持ちが行ったり来たりするなかで、最終的に引退のほうへ振り切れたのは吉村浩さん(当時のファイターズGM)と話したからでした。何しろ吉村さんは魔法使いですから(笑)、画期的な僕の活かし方を提案してくれるかな、なんて人任せなことを期待していたんです。でも結果を出せなかったらやめると覚悟してそのシーズンの契約をしてもらったというところに立ち返れば、自分で決めなきゃダメだと腹を括りました。だから吉村さんの顔を見ていたら、自然と「現役を引退します、今までありがとうございました」という素直な想いが言葉になって出てきました。
引退を決めて、最初に浮かんだのは次に何をやるべきか、ということでした。ふつうなら過去を振り返ったり、懐かしんだりするんでしょうけど、そういう感じじゃなかったんです。もちろん野球人生、悔いはいっぱいありすぎて……そのいっぱいは、大きいのがいっぱいじゃなくて、本当に細かい、小さいことがいっぱい、という感じでした。
ボタンをかけ違えてしまった感覚があったとするなら、最初にズレたのは夏の甲子園が終わって行ったアメリカ遠征です。あの時、技術的な感覚がズレてしまった気がしています。夏の甲子園で、変化球はほとんどがスライダーでした。フォークはたまに投げるくらいだったのに、アメリカではフォークばっかり投げたんです。それはフォークの調子がものすごくよかったからでした。甲子園のマウンドはすごく軟らかいのに、アメリカのマウンドって土が硬いじゃないですか。その硬いマウンドに適した投げ方をすると、フォークがやたらと落ちてくれるんです。それでフォークの味を覚えてしまって……でも、いま思えば、それが落とし穴でした。
それでも最後の数年は本当に楽しく野球に向き合うことができました。とくに2021年は自分で考えて、投げて、トライアンドエラーで、でも、こうやったら打ちとれるんじゃないか、こうすれば結果は違ってくるんじゃないかということを、データを見ながら、あるいは自分のフォームを撮影して動画で見ながら、いろいろ考えてやってきた感じはします。それを頭の中で整理できた時には身体が言うことを聞かなくなっていて……すべてを合致させるのは難しいものですね。とはいえ、僕はやり尽くしたというふうには思っていました。本当は2020年のオフも、そういう気持ちになれていたんです。ところが、さらに1年、余計にチャンスをもらえた……きっと野球の神様からのご褒美だったのかなって、今はそんなふうに思っています。
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20歳の時の斎藤と出逢ってからは、勝った試合も負けた試合も、勝ち負けがつかなかった試合も、彼のピッチングを球場で観て、感じた疑問をぶつけてきた。
時は流れ、2021年11月7日、日曜の恵比寿──。
この日、引退したばかりの斎藤とランチをともにした。そこでぼくは彼に「ピッチャーとしての斎藤佑樹を描きたい」と伝えた。そのためにあらためて話を聞かせてほしい、それがプロに入ってから引退するまでの斎藤を見届けたぼくが成すべき仕事だから、と想いを届けた。だからこの一冊は、そんな斎藤との約束が結実した賜物だと思っている。
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