甲子園Vから早大へ 斎藤佑樹が燃やした福井優也への対抗心「土曜日をとられてたまるか」
20歳の時の斎藤と出逢ってからは、勝った試合も負けた試合も、勝ち負けがつかなかった試合も、彼のピッチングを球場で観て、感じた疑問をぶつけてきた。
時は流れ、2021年11月7日、日曜の恵比寿──。
この日、引退したばかりの斎藤とランチをともにした。そこでぼくは彼に「ピッチャーとしての斎藤佑樹を描きたい」と伝えた。そのためにあらためて話を聞かせてほしい、それがプロに入ってから引退するまでの斎藤を見届けたぼくが成すべき仕事だから、と想いを届けた。だからこの一冊は、そんな斎藤との約束が結実した賜物だと思っている。
「ハンカチ王子と呼ばれて 斎藤佑樹 54勝の記憶」から早稲田大学進学後の一部を抜粋して掲載します。
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ゼロからの大学野球
大学に入ってすぐ、僕は東伏見の安部寮に入ることになりました。寮に住めるのは30人くらいで、野球部員がみんな入れるわけではありません。1年生で入ったのは何人だったかな……福井優也(のちにカープほか/済美高校で春の選抜を制覇した甲子園優勝投手、一浪して早大に入学したため斎藤と同学年ながら歳は1つ上)は入寮していましたね。その時、4年生の学生コーチに国府潤士さんという先輩がいらしたのですが、僕は国府さんに助けられました。すごく怖い雰囲気なのにとっても優しくて……国府さんは僕と同じ教育学部の先輩です。だからどんな授業をとったらいいかを教えてくれて、よく食事にも連れていっていただきました。
早稲田では1つ上の先輩はすぐ下の学年の後輩を厳しく指導するんですが、4年生ともなると1年生に口うるさいことは言いません。だからといって1年生が4年生に話しかけるなんてこもあり得ないんですが、国府さんは僕をすごく気遣ってくれていました。それが大学に入ってすぐの僕をすごく楽にしてくれましたね。授業も国府さんのアドバイスで、この曜日は午前に、この曜日は午後に集中させるとかの工夫をして、練習と授業を両立させていました。食事はほとんど寮で済ませていて早稲田界隈に馴染みのお店とかはなかったので、卒業生なら誰でも知っている定食屋とか、そういう話には今も入れないんですけどね(笑)。
ただ、野球のほうはうまくいっていませんでした。高校3年の秋の国体のあと、大学の練習に参加する頃になってもいい時の感覚がつかめていなかったんです。入学式前の3月、沖縄の浦添で野球部のキャンプがあったんですが、その時に應武(篤良)監督が僕のピッチングを見て、「斎藤、様子がおかしいぞ。オレが想像している斎藤はこんなピッチングじゃない」と言うんです。僕も、何が狂っていたのかはわからなかったんですが、とにかく投げていておかしいと感じていました。夏の甲子園の時のような感覚でピッチングしたかったのに、思うようにできてない。リズム感がまったく違うんです。
そこで應武監督が「発想を変えてみたらどうだ」とアドバイスしてくれたこともあって、フォームをガラッと変えてみようと思い立ちました。應武監督と一緒に、浦添の室内練習場でネットスローやシャドウ・ピッチングをひたすら繰り返しました。
思えば、僕のなかには松坂大輔さんのイメージがあって、夏の甲子園ではほぼストレートとスライダーだけだった球種を増やしたかったんです。だから、夏の甲子園が終わってすぐの高校日本代表に選ばれてアメリカへ行った時、現地の硬いマウンドで投げるとやたらと落ちるようになったフォークを投げまくった。それは新しい自分を見つけたかったからだし、ツーシーム、カーブ、チェンジアップなんかも自由自在に操りたかったんです。でもフォークを投げすぎたらスライダーの感覚を失ってしまって、やがてはストレートの感覚までおかしくなってしまったまま、春の浦添キャンプを迎えていました。それがリズム感を失った原因だったのかもしれません。
まずはストレートの感覚をよくすることを最優先に、腕の軌道を見直しました。感覚を戻そうと知らず知らずのうちに力が入っていたせいか、腕が身体の後ろ側に入ってしまっていたんです。そこを應武監督に指摘されて、まずはその修正を図りました。
監督はキャッチャー出身でしたし、その視点には何度も頷かされましたね。ピッチャーの腕の軌道にはとくに厳しくて、大石達也(のちにライオンズ)にもよく言っていました。「おい、また腕が入りすぎているぞ」って……そういう腕の使い方をするようになるとピッチャーは調子を崩すし、やがて壊れるということを監督はいつも話していました。浦添で監督と二人三脚で特訓したおかげで、感覚は徐々に戻ってきました。春のリーグ戦の前にオープン戦があったんですが、その時に調子がよくて結果を出していたのは福井のほうだったのかな。僕は全然ダメでした。
それでも監督はキャンプの時から「リーグ戦の開幕は斎藤で行く」みたいな雰囲気は出していました。半分はリップサービスかなと思っていましたが、でも半分は、あるかもしれないなとも思っていました。そうしたら開幕直前、監督室に呼ばれました。そこで「開幕戦、行くぞ」と言われて、ホントに行くんだと思いましたね。当時のエースは3年生の須田幸太さん(のちにベイスターズ)で、2年生に松下建太さん(のちにライオンズ)、大前佑輔さん(のちにJR東日本)がいました。たぶん僕が開幕戦に先発すれば、先輩方はいい気持ちはしなかったと思います。でも松下さんが上の先輩たちとの空気を和らげてくれましたし、須田さんは淡々と自分の練習に打ち込んでいて、僕はやりにくさを感じたことはありませんでした。
應武さんはチームのなかでのケミストリー(化学反応)をどうやって起こすかということをすごく考える人でした。開幕前のオープン戦では、僕が開幕投手に相応しい圧倒的な結果を残していたわけではなかったと思います。それでも監督は、“斎藤佑樹”が開幕投手を務めることがチームに対してポジティブな影響をもたらすのではないかと考えていたんだと思います。その結果、僕が選ばれたんでしょうね。
ただ僕は、周りからはそう見えなかったかもしれませんが、必死にやっていました。早稲田の野球部には厳しい印象はありましたが、入ってみたら本当にすごく厳しかった。上下関係は厳しいし、場をわきまえなくてはというピリッとした雰囲気は常にありました。グラウンド整備から雑用まで、やらなければならないことはたくさんありましたし、練習する時も先輩方がどう思うかを意識していました。だから、「開幕はオレだ」みたいな意識はありませんでした。
とはいえ、同じ1年の福井に対しての対抗意識はありました。ライバル心のようなものを持っていて、あの頃、キャッチボールの相手はいつも福井でした。もちろん当時、仲がよかったからキャッチボールをする、なんて空気はどこにもありません。覚えているのは「開幕投手はオレだ」ではなく、「福井に土曜日をとられてたまるか」という気持ちです。高校で日本一になって、4年の時には絶対に早稲田のエースとして大学日本一になると思っていましたから、同期には負けていたくないという思いが強かった。福井に土曜日をとられるわけにはいかないと思いながらキャッチボールしていたのを覚えています。だから「どうだ」というボールを投げたくて、かなり力が入っていたはずです。それは福井も感じていたんじゃないですか(笑)
書籍紹介
20歳の時の斎藤と出逢ってからは、勝った試合も負けた試合も、勝ち負けがつかなかった試合も、彼のピッチングを球場で観て、感じた疑問をぶつけてきた。
時は流れ、2021年11月7日、日曜の恵比寿──。
この日、引退したばかりの斎藤とランチをともにした。そこでぼくは彼に「ピッチャーとしての斎藤佑樹を描きたい」と伝えた。そのためにあらためて話を聞かせてほしい、それがプロに入ってから引退するまでの斎藤を見届けたぼくが成すべき仕事だから、と想いを届けた。だからこの一冊は、そんな斎藤との約束が結実した賜物だと思っている。
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