スカウトが振り返る、あの年のドラフト指名

「もう本当に獲りたくて...」諦めるしかなかった沢村賞右腕 高校時代は指名が見送られた鉄腕サウスポー 元巨人スカウトが明かすドラフト秘話

永松欣也

【写真は共同】

 毎年多くのドラマを生むプロ野球ドラフト会議。あの年の1位はどのようにして決まったのか? あの選手をどのように評価していたのか? あの選手はなぜ指名しなかったのか?

 2000年から2016年まで巨人のスカウトを務め、数多くの名選手を指名してきた藤本茂喜氏に、選手指名秘話やドラフト舞台裏などを振り返ってもらった。

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市船の林昌範とY校の山口鉄也

【写真は共同】

 私がスカウトになったのは2000年の2月からになります。現役引退後は三軍マネージャー、二軍サブマネジャー、営業企画部などで働いていたのですが、当時の山室寛之球団代表に「スカウトをやってくれ」と季節外れの時期に突然言われたのです。なぜかというと、関東地区を担当していたベテランスカウトの城之内邦雄さんがこの年限りで定年退職されるから。それで私がこの地区を引き継ぐべく、城之内さんの補佐という形でスカウト生活が始まりました。1年目は何も分かりませんから城之内さんについて回って、色んな人を紹介していただいたり、スカウト活動を学ばせていただきました。

 翌年からは関東の中でも神奈川と千葉が私の担当地区となったのですが、そこには2人の高校生左腕がいました。それが市立船橋の林昌範と横浜商業の山口鉄也です。

 林のことは「市船にこういう選手がいるよ」と教えていただいた、いわば城之内さんの置き土産みたいなもの。実際に春の県大会を見に行くと「4番レフト」で出場していて、確かに良い動きをしていました。それで夏まで林を追うことにしたのです。

 春に骨折をしてしばらく投げられなくて、6月終わり頃になってようやく春日部共栄との練習試合で復帰登板。でもボッコボコに打たれました。当然ですよね、復帰したばかりなんですから。「夏は準々か準決勝くらいからちゃんと投げられると思いますよ」と監督さんが言われていましたが、結局調子が上がらないまま敗退。最後の試合も結構な球団のスカウトが見に来てはいましたが、そこで評価が上がらなかったのかもしれません。

 横浜商の山口は腕の振りが良かったですね。カーブも良くてボールの質も良かった。投手としての能力が高かった印象です。でも最後の夏、横浜商業もすぐに負けてしまいました。指名がないのであれば大学に進む予定だったのですが、大学がちょっと上手く決まらなくて、それでアメリカに行くことになったようです。

 高校時代の山口は練習が好きな方ではありませんでした。良いものを持っていながらも、マウンドでの態度なども含めて「お山の大将」という感じ。

 スカウト部長の末次利光さんが「高校生の左ピッチャーを獲る。誰かいないか?」と言うので、私は林と山口の名前を挙げて「どちらか獲ってください」とお願いしました。能力だけを考えれば山口です。ですが末次さんが選んだのは林の方。実力だけでは判断しませんでした。

 林は怪我の影響もあって他球団の評価も高くないことが予想できたので「下でもいけると思います」と進言し、それで7巡目での指名となりました。私のスカウト人生で、初めて指名された選手が林です。

 ちなみに山口はこの4年後にテストに合格して育成指名で巨人に入団し、その後に大活躍をすることは皆さんご存知の通りです。

1年から追っていた高校屈指のショート・長田

【写真は共同】

 林が指名された年は、私の担当地区にそんなに候補選手が多くいない年でした。そういう年は何をするかというと、翌年以降のことも見据えて下級生をよく見ておくのです。この年、とにかくよく見ていたのが翌2002年に4巡目で指名することになる東海大望洋(現・東海大学市原望洋)のショート、長田昌浩でした。1年のときから追いかけていた選手です。

 2002年といえば、ショートでは大阪桐蔭の西岡剛(ロッテ1位)、報徳学園の尾崎匡哉(日本ハム1位)、明徳義塾の森岡良介(中日1位)の3人の高校生が1位指名された年ですが、長田は指名順位こそ1番下でしたが、評価的には彼らと同等、1位レベルの選手でした。

 監督さんに「凄い1年が入ってきたから見に来てください」と言われて足を運ぶと、部員が100人近くいたと思うのですが、最初のアップを見ただけで「あの子が長田だ」とすぐに分かりました。言葉では説明しにくいのですが、プレーを見なくてもユニフォームの着こなしや佇まいで、オーラが違うというか何となく分かるのです。実際にプレーを見てもセンス抜群で走攻守どれも良かったですね。

 長田が3年になった年は、亜細亜大の木佐貫洋、東海大の久保裕也の2人を自由枠で獲る方針でしたから、長田は早くても4巡目でしか獲れません。他球団からは「上位で指名したい」という話もあったと思いますが、それでも長田は「巨人しか行きません」と言ってくれ、他球団に指名された場合は東海大に進む予定になっていました。学校が東海大の付属ですし、巨人と東海大の結びつきの強さは言わずもがな。それで他球団も最終的にどこも降りたと思います。

 そんな長田でしたが、巨人ではほとんど一軍に上がれず、4年目のオフにオリックスにトレードされました。高卒新人選手としては松井秀喜以来の一軍キャンプに抜擢されるなど、期待も大きかったのですが、「スター軍団」の中にいきなり放り込まれたことが、本人にとってはプラスに働かなかったようです。ストレスとか人間関係とか、いろんな野球以外のところでスタートから躓いてしまいました。

 最初は二軍でゆっくり育ててもらえたら、また違った野球人生があったかもしれません。ですが、持っているものが良かっただけに一軍首脳陣も「見たい」と思うのは当然ですし、「良ければ使いたい」というのもあったと思います。この辺は難しいところです。

 この年は東海大の久保も担当していました。でもそれは「一応」という但し書きがつきます。というのも、当初から横浜ベイスターズで決まりと言われていたのですが、ちょっとあちらでゴタゴタがあったようで、それが白紙になっていたのです。それで東海大OBでもある原辰徳監督に「久保の担当をやってくれ」とお願いされ、私が担当になりました。

 担当になったときは、既に「巨人逆指名」という話がもう決まった後のことだったと思います。ですので表向きは久保の担当ではありましたが、私が特に何をしたわけではありません。

 この年は長田ともう1人、6巡目で指名した國學院大の矢野謙次を担当していました。矢野を初めて見たのは私がまだスカウトになったばかりの頃。年明けに國學院大の竹田利秋監督に挨拶に行ったとき、1人だけスイング違う選手がいたのです。「あの選手は何年生ですか?」と聞くと「まだ2年」だと言う。そこからずっと矢野を追っかけていました。矢野は体が強くてスイングも強い。肩があって足もあって、朝から晩まで野球をやっている「野球小僧」という感じの選手でしたね。

 この頃の巨人の外野は松井、高橋由伸、清水隆行と全員左打ち。右打ちの選手が手薄でしたし、右打ちの中堅選手もいましたが、その選手と比較して「若い矢野がとって代われる」と判断をしての指名でした。

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著者プロフィール

1976年、大分県速見郡生まれ。多くのスポーツサイトの企画・編集、ディレクターなどを経てフリーランスに。現在は少年野球、高校野球サイトのディレクターを務めながら書籍の企画・編集も行っている。主な書籍は『星野と落合のドラフト戦略』『ジャイアンツ元スカウト部長のドラフト回想録』『回想 ドラゴンズでの14年間のすべてを知る男』など。

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