チーム打率.427を誇った"打の日大三高"復活劇「斎藤佑樹が憎い...」早実との史上最低の決勝戦が原動力

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甲子園出場22回の実績を持つ小倉全由監督。2001年には当時最高チーム打率「.427」をあげた「打の日大三高」を作り上げたその系譜を紐解きます。

※収録は2025年

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低迷した母校を救うために、覚悟を持って戻る

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――1997年に日大三高の監督に就任された経緯を教えていただけますか?

小倉:ちょっと日大三高が低迷しちゃいましてね。2年続けて、夏の大会も早い回戦で負けちゃってたんですよ。そんな中で、まあ日大三高の理事長が「小倉、なんとか母校を復活させてくれないか」と声をかけてくださって。

――母校からの要請とあれば、特別な思いもあったのではないでしょうか?

小倉:そうですね。日大三高に行って結果が出なかったら自分で自ら退けばいいんだ。やることやって結果が出なかったら納得してあがればいいんだからっていう思いで、日大三高に戻ったんですね。覚悟を持って戻ったということです。

「よく打ちましたね」2001年夏の全国制覇

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――そして2001年夏の甲子園で初の全国制覇を達成されます。チーム打率.427という驚異的な数字でしたが、あのチームはいかがでしたか?

小倉:ええ、よく打ちましたね。チームは、もう最初から打力はいいなという手応えはありました。前のチームの時に結構、下級生でもメンバーにも入っていましたから。選手たちは経験できていた分、それにプラスして自分がやっぱりハードに練習しましたね。そうしたら選手たちが「これだけやったんだから俺たち絶対勝てるよ」っていう、なんか自信に変えてくれて、春夏と甲子園に出させてもらったんですよ。

――甲子園の中でターニングポイントとなった試合はありましたか?

小倉:まずは抽選会で樟南さんと当たった時に「お前、なんでここまで来て樟南なんだ」って(笑)。あの時、樟南さんがやっぱりずっと上位に来ていた時代でしたから。でもまあ、樟南さんに勝って、やはり一番のゲームは準決勝の横浜高校さんでしたね。

――横浜高校戦はどんな展開でしたか?

小倉:先制して、結構大量点で勝てるんじゃないかっていうようなゲームだったんですけど、8回9回でドーっと横浜さんの反撃がありまして。ああいうところが「怒涛の攻撃」っていうのかなって感じましたね。そして決勝は近江高校に5対2で、初の全国制覇でした。

――そのチームからは4人のプロ選手を送り出されましたね

小倉:もう自分は不安だけでしたね。やっていけるのかな、いいのかなって。でも本人たちがどうしてもプロに行きたいっていうのがあったんで、「そうか」って言ってですね。あの時、4番打っていた原島にはですね、「インコースをしっかりとさばけるようになったらドラフト1位で行ける」って伝えて。大学進学を一番強く勧めたのは原島でした。

――原島選手のことは今でも気にかけていらっしゃるのですね

小倉:プロに行くことができなかったんで、今でもあの時に進路をどうしたら良かったのかなっていう思いもあるんですよ。こればっかりはなかなか難しいんですけど。

「内容のない、悔いの残るゲーム」斎藤佑樹との対決

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――2006年の第88回大会、西東京大会の決勝で早実・斎藤佑樹投手と対戦されました

小倉:しっかり覚えてます。もう一番、自分が監督として内容のない、悔いの残るゲームなんです。

――それはなぜですか?

小倉:斎藤選手の癖があったんです。グラブの位置で、まっすぐか変化球か、それがちょっと見えていたんですよ。で、初回に先制点を取ってですね。中盤になってやっぱり斎藤君も気がついたんでしょうね、修正してきて。そうしたらもう4回以降はもう打てないんですよ。

――それでも延長にもつれ込みましたね

小倉:3対3で延長に入り、10回に日大三高が1点を取ります。「さあ守り切って優勝だ」と思ったのですが、その裏に1点を返されてしまうんです。ワンアウトを取って代打に右バッターが来た時、長打を警戒してセンターの守備位置を下げすぎてしまいました。2ストライクと追い込みながら、スライダーを拾われてセンター前に落ちるポテンヒット。センターが弾いてランナーが二塁まで進んでしまったんです。

――そこから一気に同点になってしまったのですね

小倉:その後、キャプテンの1番バッターにツーベースを打たれて同点になりました。まず外野の守備位置、その指示が甘かったなと。センターにはピッチャーで先発していた選手を充てていたんです。コーチから「レフトと変えますか」って言われたんですけども、レフトに嫌な風があったんで「いや、センターはそのままでいいよ」って言って、そこに落とされた悔いが残っています。

――さらに、その後のプレーでも悔いが残っているとおっしゃっていましたね

小倉:三塁上でうちのサードと相手選手が激突するようなスライディングになっちゃったんですよ。そうしたらうちの選手たちが「なんなんだ今のプレイは、ふざけるな」と熱くなったんです。自分が変に良い子になりすぎてですね。「決勝でそんなこと言ってるんじゃない。次の攻撃だ」となだめてしまった。あそこはもっと自分がベンチの前に出て、「決勝でこんなプレイでいいのか」って逆に自分がそのプレーを選手たちを盛り上げる力に変えるために、もっと抗議した方が良かったんじゃないかって。

――周りからはあの試合、東京大会の決勝史上最高のゲームと評されているそうですが

小倉:周りからはですね、「いや、東京の決勝史上最高のゲームだ」ってみんなに言っていただくんですけども、自分の中では最低のゲームだったなって。あのゲームはもう監督としての力のなさで、選手たちに勝たすことができなかった。だからもう、斎藤佑樹君が憎くて憎くて。

――でも斎藤佑樹さんは悪くないんじゃないですか(笑)

小倉:でも(笑)。斎藤佑樹君が大学4年の時、「小倉監督」って挨拶に来てくれて。それまでは憎き斎藤だったのが、「いい生徒だな」と斎藤佑樹のファンになってガラっと変わりましたね。

――甲子園での斎藤投手の活躍も改めて見られたそうですね

小倉:3ボール2ストライクからが強いんですよ。うちとの西東京大会決勝戦も3ボール2ストライクで左の4番にインコースに投げてきて、うちの選手がそれを見送って三振だったんです。斎藤君にも聞いたことあるんですよね。「あの時どういう気持ちで投げたんだ」って言ったら、「打てるもんなら打ってみろしかなかったです」って。

――そういったライバル関係の繰り返しが高校野球の醍醐味でもありますね

小倉:そうですね。斎藤君の2年の夏はコールドでうちが勝ってる。そしたら「日大三高に勝たないと甲子園に行けない」って練習したって。それで秋の大会は早実とあたってうちが負けたんです。「打倒斎藤佑樹、打倒早実」で一冬越しました。

――かつて小倉先生の前に立ちはだかった帝京であり前田三夫先生であり、その後斎藤佑樹君にとっては日大三高が立ちはだかって、また今度は斎藤佑樹を倒さないと。この繰り返しなんですね

小倉:そうですね。

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