部員4人から甲子園3度優勝の強豪校へ 帝京・前田三夫元監督が明かす指導者人生の原点
※収録は2024年12月20日
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「大変なところに来たな」
前田:大学4年の6月ぐらいに話がありました。私は大学時代、一度もレギュラーとして出たことないんですよ。大学では一塁コーチャーをやってて、それが嬉しくてね。1つのポジションと思って頑張っていました。
前田:大学4年になったら「前田、ノックをしてくれ」「新人戦の監督をやってくれ」と言われて。本当は練習したかったんですけどね。そのうちに「板橋の帝京高校へ行って、高校生の面倒を見てやってくれ」と。
前田:そして6月に大学本部に呼ばれて、「お前、帝京の監督やれ」と。
しかし、当時の前田氏には社会人野球でプレーしたいという夢があったため、この話を一度は断りました。
前田:野球は下手くそですけど、夢があったんですね。社会人でやりたいと。指導者になる気は全くなくて、お断りしました。「嫌です」と。まだ選手としてやりたいです、と。
前田:でも、いろんな人に相談したら「君は指導者に向いてるんじゃないか」という声がものすごく多くてね。そうなると本人もその気になっちゃうわけですよ。
こうして1972年1月15日、監督としてのキャリアをスタートさせましたが、そこで待っていたのは想像を絶する光景でした。
前田:東京でベスト8が最高だったとは聞いてたんですけどね。私が行ったときは40人弱の部員がいたんですが、監督さんが不在だったこともあって、まあ楽しくやってる。それはいいんですけど、ボールやバットを粗末にするのがものすごく目についた。
前田:部室も本当に荒れてましてね。これは正直言って「大変なところに来たな」っていうのが最初の印象でしたね。
40人弱の部員がまさかの4人に
前田:1月15日に私が言った第一声は「みんなで甲子園に行こう」です。40人弱の部員がいたんですけど、そのときに選手がね、笑ったんですよ。「甲子園なんか行けるわけないじゃないか」「何を言っとるんだ」と。
前田:これは夢がないなと。ちょっと(気持ちを)締めていかないと大変なことになるぞと。夜遅くまで練習したり、私も一緒にランニングしたりね。まあそうしたら、キツいんでしょうね。始めて2、3週間くらいですかね。最終的には4人になってしまって。
前田:もうね、みんな練習に出てこなくなっちゃって。「こんな厳しいんだったらやらない」と。「今度来た監督はうるさくて厳しくてやってられない」ということでね。いやあ、これはびっくりしたと同時に悩みましたよ。帝京高校の野球部をつぶすわけにはいきませんから。
そこで前田監督は、練習に来ない「幽霊部員」2人に目をつけ、説得。そのうちの一人が、とんねるずの石橋貴明さんの実兄でした。
前田:彼ともう1人の子も説得して6人にして。なんとか新入生を迎えたという感じです。