広報は「待ってくれない時代」にどう向き合ったか? ミックスゾーンの人数制限とアギーレの八百長疑惑
南アフリカでの「人数制限」
苦笑交じりにそう振り返るのは、現在はJFA(日本サッカー協会)理事の肩書を持つ西澤和剛である。西澤が広報として、日本代表の現場に深く関わるようになったのは、岡田武史体制の集大成と言える、2010年のワールドカップ(W杯)南アフリカ大会の開幕直前から。そのデビューは、まさに「緊急出動」であった。
直前までメディアオフィサーを務めていたのは、アジア最終予選からA代表担当に復帰していた福士一郎太。しかし、スイスのサースフェーでの合宿でアキレス腱を断裂してしまい、それまでサブの役割を担っていた西澤が急きょ代役として、広報の最前線に立たされることとなる。心の準備は、まったくできていなかった。
「まず、岡田さんが怖かった(苦笑)。クラブの監督時代にお話する機会がありましたが、代表監督として接した際はまったく違う雰囲気で。それと本番直前ですから、すでにチームは出来上がっているわけです。そんななか、いきなり新しい広報が加わったわけですから、そういうプレッシャーもありましたよね」
南アフリカでの日本代表のベースキャンプ、ジョージには海千山千の取材陣が多数押しかけていた。ピリついた空気が充満する中、いきなり前面に立つ見慣れない広報に対して、常に笑顔で接してくれるメディア関係者はそれほど多くなかったはずだ。
「このとき問題になったのが、ミックスゾーンで取材を受ける人数の制限でした」と西澤。ベースキャンプでのトレーニングは、冒頭15分を過ぎると非公開となることが多い。そこで重要となるのが、ミックスゾーンでの取材。練習を終えた選手に声をかけて立ち止まらせ、何とか記事になりそうな証言を引き出そうと、記者たちは四苦八苦する。
ミックスゾーンでの取材は、それまでは全員対応がスタンダード。ところがジョージでは、対応する選手を制限するというJFAの方針が、岡田監督と相談の上で固められていた。西澤自身は当初、選手全員が対応すべきだと考えていたという。しかし実際に現場で対応してみると、非効率さに加えて選手にも大きな負担があることが理解できた。
「練習場も広くないし、ミックスゾーンも限られているのに、メディアの数は多い。運用の工夫で改善しようにも、物理的に不可能でした。ですから、記者クラブの幹事にも事情を話して、いったんは納得してもらったんです。でも、ほとんどのメディアは納得されず、いろいろなクレームを受けました。毎日のように怒られていましたね(苦笑)」
ジョージでの西澤は、まさにメディアから吊るし上げ状態だった。そんな彼を励ましていたのが、初代メディアオフィサーで同い年の加藤秀樹。FIFAメディアオフィサーとして現地に滞在していた加藤は、担当していたルステンブルクから心理面で西澤を支えた。
「現場では僕が矢面に立つんですが、加藤がフォローしてくれていました。困ったときに相談すると『その考え方で大丈夫だから』と返してくる。その上で、細かな手法や言い方についてアドバイスしてくれた。あの距離感には、ずいぶん助けられました」
その加藤にも、当時のことについて聞いてみた。「西澤は急に役割を引き受けたので大変だったと思います」としながら、こう続ける。
「大変なことになっていると聞いていましたが、現場の本当の状況がわからないので、まずチームが望んでいることを確認しました。方針を決定する上で、最後に重要になるのは覚悟です。現場の担当者だけでなく、組織全体が覚悟を持って対応する。これがないと、さらに難しい状況になりかねませんから」
サッカー未経験で清水の広報となって
西澤がサッカーの世界に引き込まれるきっかけは、皮肉にも1997年に発覚した清水エスパルスの経営危機だった。当時、勤務していた地元の物流大手、鈴与株式会社が経営の立て直しに名乗りを挙げ、西澤は社長室からクラブ広報に出向となる。
「エスパルスに出向となったのは、次の年(1998年)の2月。本当に何でもやっていました。広報だけじゃなく、イベントや行政対応、スポンサー対応もある。試合当日なんて、朝から晩まで走り回っていました。クラブ経営としては、かなり厳しい時期で、現場も常にギリギリの状態でしたね」
西澤が清水の広報に就任して間もなく、全国的な脚光を浴びていたのが、ユースから昇格したばかりの市川大祐。3月にはJリーグデビュー、4月には日本代表にも選出され、18歳の誕生日を迎える前に代表デビューも果たしている。メディアから注目される彼を、高校から練習場まで車で送り届けるのもまた、広報である西澤の役割であった。
肝心の本業については、どうだったか。Jクラブの広報は一般企業のそれとは明らかに異なる。それゆえ西澤は、他クラブの広報から貪欲に学ぶことを厭わなかった。
「最初のアウェイ戦が、西京極の京都パープルサンガ(現・京都サンガF.C.)戦だったんです。アウェイの場合、広報はどういう動きをしていいのか、まったくわからない。ですから『教えてください!』と頼み込んだのが、京都の広報だった永松(太)でした。まさか、のちにJFAの広報で一緒になるとは思わなかったですが」
清水での広報の仕事は、当初は3年程度で終える予定だった。しかし結果として、任期は2008年までの10年。鈴与に復帰する道もあったが、Jクラブの広報としての10年のキャリアをサッカー界が看過することはなかった。
次のキャリアを考えたとき、西澤がまず考えたのが「人が死ぬリスクの少ない仕事がしたい」というもの。鈴与は港湾荷役や物流を担う企業でもあり、コンテナや大型車両が激しく行き交う、一歩間違えれば重大事故につながる現場であった。西澤自身、死亡事故に直面したり何度か救急車に同乗した経験が大きなトラウマとなっていた。
「もちろん、どんな仕事にも責任とリスクはあります。ただ、自分の中では、命に直結する現場から、少し距離を置きたいという気持ちがあったんです。そうして考えると、本社に戻らずにサッカーの世界で生きていくのもありだなと思いました」
いくつかのJクラブからも、魅力的なオファーがあったそうだが、最終的に彼が選んだのはJFA(日本サッカー協会)。すぐさま広報スタッフとして、北京五輪に挑む女子日本代表に帯同する。そして前述の通り、2010年のW杯では大変な思いをしながらも、メディアオフィサーとしての実績を積み重ねていった。
「代表の広報って、外から見えているイメージとぜんぜん違うんですよ。目立つ仕事ではなく、完全な裏方。ずっと調整して、ずっと謝っている感じですからね(苦笑)。大事なのは、現場がちゃんと回っていること。監督や選手がサッカーに集中できて、メディアも仕事ができている。その状態をどう作るかが、広報の役割だと思っていました」