JFAメディアオフィサーが見た「もうひとつのW杯」

広報は誰のために存在するのか? 代表チームとメディアをつなぐ役割

宇都宮徹壱

イビチャ・オシムに代わり、再び日本代表を率いることになった岡田武史監督。アジア予選は突破したものの、大会前はほとんど期待されていなかった 【宇都宮徹壱】

2010年の南アフリカ以後

 イビチャ・オシムが倒れてから3週間後、2007年12月7日に日本代表の新監督が発表された。日本を初めてワールドカップ(W杯)に導いた男、岡田武史である。

 岡田が選ばれた理由については、オシムが築いた土台を活かせる人材であること、そして強いリーダーシップと求心力があることなどが決め手となったようだが、翌年2月6日から始まるW杯アジア3次予選まで時間がないことも大きな要因となった。

 オシム体制のメディアオフィサーだった永松太は、3次予選までは引き続き担当したものの、最終予選からはチームから離れることとなった。代わって福士一郎太がA代表の担当に復帰。当時を振り返りながら、永松はこんな胸の内をもらした。

「オシムさんは、とても面白いサッカーで南アフリカを目指していました。あのまま監督を続いていたら、一緒にW杯に行っていたんだろうなと。今でも時々、そんなことを想像することがありますね」

 一方の福士もまた、任務をまっとうする前にチームを離れることとなる。岡田率いる日本代表は、無事にアジア最終予選を突破。本大会直前には、高地順化のためにスイスのサースフェーに合宿を張る。このとき、メディア関係者との親睦を深める「メディアマッチ」で、福士はアキレス腱を断裂する大怪我を負ってしまった。

「相手に削られたとかではなく、踏み込んだ足にバチンと来たんですよ。すぐに手術することになり、松葉杖とギブス、そして車いすが欠かせない状態になってしまいました」

「このままでは足手まといとなってしまう」――。福士はチームからの離脱を覚悟した。しかし「苦しい時を一緒に乗り越えてきたんだから」と、当時の総務が判断。南アフリカのキャンプ地、ジョージまでは同行することとなった。

「要するに『お留守番』なんですけど」とは当人の弁。試合に向かう代表チームを見送り、戦いを終えた彼らを迎える、そんな日々が続いた。

「現地のメディアもキャンプ地を取材に来る中、思うように動けない状態で、どう現場を回すかを考えなければなりませんでした。周りのサポートもありましたけど、自分の中ではかなりもどかしさがありましたね。それでも現場にいると、少しずつ手応えのようなものは感じていました」

 この大会での日本は、グループステージを2勝1敗で2位通過。ラウンド16の試合会場はプレトリアに決まり、日本代表はジョージを引き払うこととなった。福士の役割も終了となり、ひとり帰国の途につくこととなる。結局のところA代表での彼の仕事は、第3戦のデンマーク戦が最後となった。

 羽田空港に到着後、福士は日本中がW杯で盛り上がる光景に直面して、大いに面食らった。無理もない。大会前の日本代表は、直前の親善試合で敗戦が続き、まったく期待されていなかったからだ。結果として、パラグアイとのPK戦の末にベスト16で終わったが、岡田監督率いる日本代表は凱旋に近い形で帰国することとなる。

「正直、あそこまで行くとは思っていなかった部分もあります。環境的にも厳しかったですし、出発の際見送りに来たサポーターは、10人もいなかったですよ。それくらい、周囲の期待も決して高くはなかった。でもその分、チームとしての一体感は、間違いなくあったと思います」

 福士にとって、この大会は日本中が盛り上がるという達成感が得られた一方で、どこか距離のある経験でもあった。現場にいながら、現場のすべてに関われたわけではない。思うように動けない中、広報として何ができるのかを問い続ける日々でもあった。

 それでもなお、現場は回り続ける。チームは進み、メディアは動き、試合は行われる。そんななか、ふと原初的な疑問が浮かぶ。広報は誰のために存在するのだろうか。

現場から立ち上がったメディアオフィサーという職能

南アフリカ大会直前、高地順化のためにスイスのサースフェーで合宿を張った日本代表。カメラの外側では、メディアオフィサーが取材現場を整えている 【宇都宮徹壱】

 1994年から始まった、日本代表の広報。それは、日本が初めて国外でのW杯で決勝トーナメントにたどり着いた2010年には、現在の形に近い体制が整うこととなった。当連載も折り返しを過ぎたので、ここであらためて「広報とはいかなる仕事なのか」について、歴代メディアオフィサーの言葉を紡ぎながら整理したい。

 まず確認したいのは、日本代表の広報という職能は、ハンス・オフトが監督に就任する以前の日本代表には「不要だった」ということだ。1992年以降、アジアカップ優勝やW杯アメリカ大会予選の過程で、日本代表を取材するメディアの数が激増。現場の必要に応じて、報道担当の機能が求められ、試行錯誤の中で整備されていった。

 しかし当初、日本では誰も経験をしたことがなく、そのポジションに求められる明確な役割を誰も知らなかった。そして、その機能や職責、業務内容は、後付けで成立した仕事であった。初代メディアオフィサー、加藤秀樹は語る。

「最初は本当に、自分の立ち位置も明確ではないし、何が正しいのかわからなかった。正解を知っている人もいなければ、前例もない。何十人、時には百人近い方が取材に来ていただいている中で、どのようなことが必要なのか、その場ですべて判断するほかなかった」

 そんな状態から広報、すなわちメディアオフィサーの仕事は始まった。現場は日々、変化する。ゆえに、画一的に運用するのではなく、「柔軟に判断する」ほかなく、その判断には絶対的な正解が存在しない。まさに禅問答のような状況での試行錯誤が続く。

「もちろん、100人の方全員に100%満足していただくことは不可能です」と加藤。その上で彼が強調するのが「経験や人間関係を積み上げていくことが大切」ということだ。

「広報に限らない話ですが、経験や信頼というのは積み重ねられていくものだと思います。監督や選手からも、メディアからも、日々の仕事を通じて信頼されるようになることが大事。ただし、ひとつの間違いで全部が崩れてしまうこともあります。ですから、常に状況を俯瞰して見た上で両者のバランスを判断することが、すごく重要になるんです」

 この「判断」と「積み重ね」という感覚は、加藤の後輩たちにも受け継がれていく。今度は福士に語ってもらおう。

「前職のPRの仕事は、いかに取り上げてもらうか、いかに露出を増やすかという発想でしたが、日本代表の広報は少し違いました。発信も大事なんですが、それ以上に『現場を整える』ことを重視していました。取材の流れや順番、タイミングをきちんと設計しないと、そもそも現場が成立しませんから」

 広報とは、単に効果的に情報を発信する機能ではなく、チームの活動とメディアの要請とのバランスを考慮し、それぞれに快適な「場の設計」に関わる仕事である。何を出すかよりも、チームとメディア双方にとって良い環境を作り上げることだ。

 チームには、試合に向けて集中してもらう。メディアには、よい取材をしてよい記事を書いてもらい、よい情報をファンに届けることができる状態を提供する。その設計ができていないと、現場は混乱し、情報はうまく伝わらない。

「ですから、チームのためでもあり、メディアのためでもある。どちらか一方だけに寄ることはできません。だからこそメディアオフィサーは、どういう立ち位置で、どうバランスを取るのか。それを常に意識するように心掛けていました」

 福士が語った「バランス」という視点は、続く永松の証言とも重なる。

「どちらに寄りすぎてもいけないんです。チームに寄りすぎてもダメですし、メディアに寄りすぎてもダメ。そのときに何を優先するのかを決めて、その判断に責任を持つことが大事だと思います」

 ただし、常に「中立」であればいい、ということでもない。状況に応じて優先順位を決め、その判断を引き受けることが重要なのだと永松は続ける。

「すべての判断が正しかったわけではないので、もちろん批判されることもあります。でも、そこで逃げてしまったら、この仕事は成り立たちませんからね」

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著者プロフィール

1966年生まれ。東京出身。東京藝術大学大学院美術研究科修了後、TV制作会社勤務を経て、97年にベオグラードで「写真家宣言」。以後、国内外で「文化としてのフットボール」をカメラで切り取る活動を展開中。著書に『ディナモ・フットボール』(みすず書房)、『股旅フットボール』(東邦出版)など。『フットボールの犬 欧羅巴1999−2009』(同)は第20回ミズノスポーツライター賞最優秀賞を受賞。近著に『異端のチェアマン 村井満、Jリーグ再建の真実』(集英社インターナショナル)。宇都宮徹壱ブックライター塾(徹壱塾)塾長。

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