JFAメディアオフィサーが見た「もうひとつのW杯」

広報は現場でどう機能しはじめたか? ジーコ・ジャパンと代表人気の高まり

宇都宮徹壱

ジーコ・ジャパンのメディアオフィサーを務めた福士一郎太。「サッカーに強いこだわりがあったわけではない」スタンスが、現場との程よい距離感を作っていた 【宇都宮徹壱】

PR会社からジーコ・ジャパンへの出向

 2002年ワールドカップ(W杯)で、フィリップ・トルシエ率いる日本代表の最後の試合となったのが、6月18日に宮城で行われたラウンド16のトルコ戦。そのトルシエに代わって、新たな代表監督となったジーコの初陣となったのが、10月16日に国立競技場で開催されたジャマイカとの親善試合である。

 この間、実に4カ月。当時のサッカーファンの心情について、記憶をもとに無理やり言語化するなら「W杯の余韻に浸りまくった4カ月」となろうか。2002年のW杯のみならず、よくも悪くも代表監督として型破りだったトルシエが日本を去ってしまったことに、多くのサッカーファンが奇妙な喪失感を抱いていたのである。

 日本サッカー(あるいは日本文化)にとって異質だったトルシエに比べると、後任のジーコは鹿島アントラーズの礎を築いたことで知られており、体制発足時に彼が選んだメンバーもトルシエが見いだした選手ばかりであった。

 つまり、いささか新味にかけた陣容でスタートしたのが「ポスト・トルシエ」の日本代表をめぐる状況。それに比べると、日本代表の広報セクションは大きく刷新された印象があった。SAMURAI BLUEのメディアオフィサーは、長年、このポジションを担ってきた加藤秀樹から、当時29歳の福士一郎太に引き継がれた。

「正直に言うと、もともと僕、サッカーに強いこだわりがあったわけではないんです。だからこそ、この仕事を始めるときも『こうあるべき』という固定観念がなかった。前職はPRの仕事だったんですが、日本代表の広報は『発信する』というより『整える』仕事。その違いは、現場に入って初めて実感しましたね」

 そう語る福士は、1973年生まれで東京都出身。小学2年からサッカーを始めたが、買ってもらったばかりのスパイクを先輩にわざと踏まれたのが原因で、中学1年でサッカーをきっぱり辞めている。そこでいったん、サッカーとの縁は切れたはずだった。

 高校卒業後、福士は自動車マーケティングの専門学校へ進学。アメリカ留学の話もあったが、折からのバブル崩壊で何もかもが吹き飛んでしまう。これに追い打ちをかけたのが、空前の就職難。福士はまさに、氷河期世代の第一陣であった。

「あちこちに履歴書を出しても、どこにも相手にされない状態が続きました。専門学校のゼミの先生に紹介していただいて、やっと決まった就職先が、ユース・プラニング センターというPR会社。右も左もわからない状態で、初めて現場に放り込まれたのが、トヨタカップの現場でした。そう、アヤックスvs.グレミオの年です」

 PRの仕事が肌に合っていたのか、その後の福士はさまざまな国際大会で経験を積んでゆくこととなる。2000年のシドニー五輪では、トライアスロンの広報業務を担当。2年後のW杯日韓大会では、JAWOC(日本組織委員会)に出向となり、世界中のメディアの受け入れ準備や国内8会場を担当しながら、最後は横浜で決勝戦やVIPのメディア対応にも関わる。

「実は少し前に(加藤)秀樹さんとの接点があって、日本代表の広報という仕事について話を聞く機会がありました。『これから絶対に必要になる役割だ』というお話をされていたのは、今でも印象に残っています」

 そして大会後、当時の広報部長だった手嶋秀人から電話が入る。その内容は「新しく日本代表監督となる、ジーコの広報担当をやってくれないか」というものだった。

「サッカーの神様」ジーコを叱りつけた広報

日本代表監督時代のジーコ。スポンサーへの配慮やファンへのサービスを重視していたため「サイン攻めにストップをかけるのが僕の役割でした」と福士は語る 【宇都宮徹壱】

 福士の世代にとってのジーコ。それは「鹿島の」ではなく、「セレソン(ブラジル代表)の」ジーコである。さらに言えば、1982年と86年のW杯においてブラジルのみならず、世界中を熱狂させた「黄金のカルテット」のジーコであった。

 そのジーコが率いる日本代表で、広報の仕事ができる――。もし貴方がそんなオファーを受けたら、果たしてどんなリアクションをするだろうか。小躍りしたい気持ちを必死で抑えるか、それとも周囲にはばからず90度のお辞儀をするか。しかし福士は違った。

「考えさせてくださいって(笑)。一拍置いたのは、ユース・プラニング センターの仕事が楽しかったから。五輪も経験しましたし、今週はテニス、来週はゴルフという感じで、いろんなスポーツの現場を飛び回っていました。もちろん、ジーコのことは知っていましたよ。でもJFA(日本サッカー協会)に行ったら、サッカーしかできなくなるじゃないですか」

 このサッカーに対する距離感。それは、福士に白羽の矢を立てた手嶋が、最も重視した条件だったと思われる。サッカー業界の常識に浸ることなく、わからないことは「わからない」、おかしいと思ったことは「おかしい」と言えること。そして何より、「神様」ジーコに忖度しないことが、新任のメディアオフィサーには求められたのだろう。

 かくして、ユース・プラニング センターからJFAへの出向が決まり、監督に就任したばかりのジーコに対面することとなった。さすがに実物を眼の前にしたら、それなりに圧倒されるかと思うのだが、福士は平然とこう語る。

「普通の感覚なら緊張すると思うんですが、自分はそこまででもなかったですね。もちろん、すごい人だとはわかっているんだけれど、『だから何も言えない』という感覚にはならなかったです。ジーコ時代の難しさは『どこまで踏み込むか』という距離感の取り方でした」

 ジーコと福士の関係性を象徴するようなエピソードがある。2003年6月、フランスで開催されたコンフェデレーションズカップでのことだ。当時、JFAとジーコとの間では、選手のプライベートやチームの規律を守るため「自宅とチームホテルでの取材は一切NG(ただし緊急時は除く)」という紳士協定が結ばれていた。

「ところがある日、ジーコがブラジル人の記者たちとホテルで談笑している姿を見つけたんです。『約束と違う! ふざけるな!』って、4人をホテルの外に押し出したんです。記者たちはもちろん、ジーコもびっくりしたと思いますよ(苦笑)」

 あまりの剣幕に、一瞬で空気が凍りついた。相手が代表監督で「サッカーの神様」だろうが、信頼関係を崩すような行為は絶対に許されない。それが、福士のスタンスであった。果たして、ジーコとの関係性がギクシャクする不安はなかったのだろうか。

「それはなかったですね。むしろジーコのほうから『すまん、オレが悪かった』と謝ってくれましたから。その上で『お前もプロだし、オレもプロだ。だから今後は、ちゃんと約束は守るよ』とも言ってくれましたね」

 以後、ブラジルのメディアから取材を受ける場合は、福士を通してオフィシャルな場をセッティングするというルールが設けられ、両者は固い握手を交わすこととなった。

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著者プロフィール

1966年生まれ。東京出身。東京藝術大学大学院美術研究科修了後、TV制作会社勤務を経て、97年にベオグラードで「写真家宣言」。以後、国内外で「文化としてのフットボール」をカメラで切り取る活動を展開中。著書に『ディナモ・フットボール』(みすず書房)、『股旅フットボール』(東邦出版)など。『フットボールの犬 欧羅巴1999−2009』(同)は第20回ミズノスポーツライター賞最優秀賞を受賞。近著に『異端のチェアマン 村井満、Jリーグ再建の真実』(集英社インターナショナル)。宇都宮徹壱ブックライター塾(徹壱塾)塾長。

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