JFAメディアオフィサーが見た「もうひとつのW杯」

広報の役割はいかにして定義されたか? W杯フランス大会とトルシエの時代

宇都宮徹壱

JFAの初代メディアオフィサー加藤秀樹。初のW杯出場となった1998年のフランス大会、そして自国開催のW杯という激動の時代を裏方として見つめ続けてきた 【宇都宮徹壱】

日本代表広報にとっての「初めてのW杯」

 1997年11月16日、マレーシアのジョホールバルで行なわれた、1998年ワールドカップ(W杯)フランス大会のアジア第3代表決定戦。日本はイランを延長ゴールデンゴールによって3-2で下し、見事に初の本大会出場を果たした。その歓喜の輪の中に、日本代表初代メディアオフィサー、加藤秀樹の姿もあった。

 日本サッカーの新時代を象徴する「ジョホールバルの歓喜」。筆者にとって、あの夜はテレビ画面越しの記憶でしかない。さぞかし現地は盛り上がっただろうと思うのだが、現地観戦者たちに話を聞くと、その記憶は拍子抜けするくらい断片的だったりする。加藤もまた、いかにも広報的な思い出を語るばかりであった。

「当時はまだ、電話回線で原稿や写真を送る時代ですからね。マレーシアの協会に協力していただき、記者席を増設して原稿や写真を送るための電話回線を引き、選手取材のスペースも確保しました。カタールでのW杯で、そのときお世話になったマレーシアの方に再会したんですが、『あの時はクレイジーだった』と笑っていました」

 日本を初のW杯出場へ導いたのは、当時41歳の岡田武史。加茂周の後任としてコーチから昇格し、初めて日本代表を率い、初めてW杯出場を成し遂げた。監督も、選手も、スタッフも、そして日本サッカー自体にとっても、何もかもが初めてづくし。当然、メディアオフィサーにとっても、1998年のフランス大会はまさに未体験ゾーンだった。

「抽選会や会議では何が行われるのか。大会に向けて何を準備しなければならないのか。大会までにFIFA(国際サッカー連盟)とどう連携するのか。実際に経験していないので、何が起こるのか想像できない。想像できないということは、必要な準備もできないということなんです。当時は最善を尽くしたつもりですが、今振り返れば足りないことばかりでした」

 フランスでのキャンプ地、エクスレバンには日本から数多くのメディアが詰め掛けた。テレビ、新聞、雑誌、通信社。初出場の日本代表を追いかけ、少しでも多くの情報を日本へ届けようとする。対するチーム側は、限られた人数で対応しなければならなかった。

「大会期間中は、Jリーグで広報をされていた田中由起さんが帯同してくれましたし、広報部長の小野沢洋さんにもサポートしていただきました。それでもメディアの数は多いし、FIFAとの調整もありましたから大変でした」

 加藤が最も苦慮したのは、代表チームとメディアの「落としどころ」を探ることだった。代表チームは、当然ながら試合に集中したい。一方でメディアは、読者や視聴者が求める情報を届けなければならない。その両者の間に立ちながら、どこに線を引くべきか。当時は、その正解がまだ見えていなかった。

「代表チームの活動を守ることが大前提。でも、メディアの方々も仕事として現場に来ている。立場の異なる両者の間に立って、どうバランスを取るべきか。大会期間中はずっと、そのことばかりを考えていました」

 フランスでの日本代表は、グループステージ3戦全敗で大会を終える。ピッチ上の結果だけを見れば、決して成功とは言えない。しかし日本サッカー界全体にとって、この大会での経験が、大きな財産となったことは間違いないだろう。そして加藤自身にとっても「広報とは何か」について、明確な輪郭が見えてきた大会となった。

「広報という仕事は、起きたことに対応するだけではダメなんです。何が起こるかを予測して、準備しておく。その視点がなければ、代表チームもメディアも支えられない。そのためには、もっと経験が必要だと痛感した大会でした」

監督会見でのトルシエとメディアの丁々発止

1998年から4年間、日本代表を率いたフィリップ・トルシエ(右)と通訳のフローラン・ダバディ。両者による会見は「劇場型」として話題になった 【写真:権藤和也/アフロスポーツ】

 フランスW杯終了後、岡田武史は日本代表監督を退任。その後任として迎えられたのが、フランス人のフィリップ・トルシエだった。1998年から2002年まで、日本代表を率いた初めての長期政権の外国人監督。その最前線で対応に追われていたのが、引き続きメディアオフィサーを務めていた加藤である。

「トルシエさんは、ヨーロッパ型のメディア対応を求めていました。監督にとって、理想とする環境を整える必要があったのですが、かなり取材制限が厳しい状況でした。ですので、日本のメディアに理解していただくのは簡単ではありませんでした」

 自国開催のW杯に向けて、当時の日本代表には、かつてない注目が集まっていた。現場の記者たちは、デスクから大量の記事や情報を求められる。しかし取材できる範囲は限定され、得られる情報も少ない。その閉塞感が、現場の緊張感をさらに高めていた。

「自国開催のW杯に向けて、メディア側の期待値は非常に高かったと思います。一方で、トルシエ監督はチームを守るために対応を絞ろうとする。その両方の間に立つ立場でしたから、正直かなり難しかったですね」

 単に取材制限を設けるだけではない。記者会見でトルシエは、しばしば挑発的とも受け取られかねない発言を行い、自ら議論を巻き起こすこともたびたびだった。慎重に言葉を選びながら、加藤はこう続ける。

「今振り返れば、どう報道されるかを計算していた部分もあったと思います。その一方でトルシエ監督は、感情をそのまま言葉にするところもあった。結果として、いろんな摩擦が生まれていました」

 実際、当時の記者会見は「劇場型」とも言うべき独特の空気に包まれていた。象徴的だったのが、2001年のコンフェデレーションズカップ、カナダ戦の前日会見。トルシエは、通訳のフローラン・ダバディとともに腕章を巻いて登場する。

 会見中、ある記者が「今大会のキャプテンは決まったのでしょうか」と質問。するとトルシエは突然ステージを降りると、腕に巻いていたキャプテンマークを質問した記者に押し付け、こう言い放つ。「キャプテンは君だ!」――。会場は騒然となった。

 背景には、それ以前から続いていた「キャプテン論争」がある。当時のトルシエは、特定のスター選手をメディアが持ち上げる構造に、強い違和感を抱いていた。選手を平等に扱うことを重視し、固定キャプテン制を採用していなかった。キャプテンマークを巻いて登場したのは、メディアの「キャプテン論争」に対する意趣返しでもあった。

 さらにこの会見では「スポーツ新聞があるから日本サッカーは弱い」という刺激的な発言まで飛び出す。会見終了後、加藤は記者たちからの確認対応に追われることとなった。今となっては「伝説」だが、当時の現場は笑い話では済まされなかった。

「毎日、何かしらありました」と加藤。その心労は察するほかないが、それでも彼はトルシエを一方的に否定していない。むしろ「あの時代があったからこそ、日本代表のメディア対応が一段階引き上げられた側面も否定できないです」とも。

 それまでの日本代表は、極論するなら「善意と熱量」で回っていた。しかし、自国開催W杯が近づくにつれ、メディア対応にも世界基準が求められるようになる。その急激な変化の中心にいたのが、「黒船」としてのトルシエだった。

「その後、いろいろな経験をした今の自分なら、もう少し違ったやり方もできたかもしれません」

 当時を振り返って、そう語る加藤。だが、摩擦や混乱を繰り返しながらも、日本代表の現場は、確実に経験値を積み重ねていった。そして、その試行錯誤の延長線上に、自国開催となる2002年日韓W杯が待っていたのである。

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著者プロフィール

1966年生まれ。東京出身。東京藝術大学大学院美術研究科修了後、TV制作会社勤務を経て、97年にベオグラードで「写真家宣言」。以後、国内外で「文化としてのフットボール」をカメラで切り取る活動を展開中。著書に『ディナモ・フットボール』(みすず書房)、『股旅フットボール』(東邦出版)など。『フットボールの犬 欧羅巴1999−2009』(同)は第20回ミズノスポーツライター賞最優秀賞を受賞。近著に『異端のチェアマン 村井満、Jリーグ再建の真実』(集英社インターナショナル)。宇都宮徹壱ブックライター塾(徹壱塾)塾長。

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