JFAメディアオフィサーが見た「もうひとつのW杯」

なぜ日本代表に広報が置かれたのか? それはファルカン監督就任から始まった

宇都宮徹壱

1993年の「ドーハの悲劇」の舞台となったアル・アハリ競技場。2022年のW杯カタール大会では、ここを訪れて往時を偲ぶ日本サポーターを多く見かけた 【宇都宮徹壱】

加藤秀樹にとっての「ドーハの悲劇」

 1993年10月28日、貴方はどこで、あの試合を見ていただろうか。ワールドカップ(W杯)アジア最終予選、日本vs.イラク。いわゆる「ドーハの悲劇」である。

「いちファンとして、あの試合をテレビで見ていました。最後の失点の場面も含めて、あのときの空気は今でもはっきり覚えています」

 男は、ひと呼吸置いてから、さらに続ける。

「残念という気持ちは、もちろんありました。ただ、それだけじゃなかったんですよね。『日本がどうなったらW杯に行けるんだろうか』ということを、自然と考えていた気がします」

 日本サッカー史、最大の蹉跌(さてつ)とも言える「ドーハの悲劇」は、多くのサッカーファンにとって、試合結果を超えた意味を持つ出来事となった。のちに日本代表の「メディアオフィサー第1号」となる加藤秀樹にとっても、それは自らの進路に影響を与える重要な分岐点となる。

 当時、加藤は社会人2年目の26歳。大手精密機械メーカーの営業をしていた。野球全盛期だった小学生時代からサッカーに親しみ、早稲田大学人間科学部スポーツ科学科の2期生でスポーツ経営学を学んだ。おりしも2002年W杯招致の動きもある中、ダイナミックな動きを見せる日本サッカー界に、加藤は並々ならぬ関心を抱いていた。

 当時の加藤には「もし日本でW杯が開催されるのなら、そこで仕事をしたい」という強い願望があった。だからこそ、W杯初出場を目指す同年代の選手たちの一挙手一投足を、食い入るように見つめていたのである。

 加藤が就職した1992年当時、サッカーで給料をもらって生活していくというのは、学校の先生として部活に関わること以外、極めて非現実的な夢でしかなかった。選手としての能力はない。新聞社やテレビ局に就職しても、サッカーに関われる保証はない。Jリーグ開幕前夜ではあったが、Jクラブでの仕事で募集が出ているわけではなかった。

「サッカーの周辺に仕事がある、という認識はありました。ただ、それがどういう役割なのか、どこまで必要とされているのかは、当時はほとんどわからなかったというのが実情でした」

 そんな状況のなか、テレビ画面の向こう側で見つめた「ドーハの悲劇」。確かに、結果は残念だった。けれども、それとは別の感情に付き動かされている自分に気づいたという。

「(1992年の)アジアカップでも優勝して、こんなにすごい選手たちが揃っていたのに、W杯には届かない。いちファンなりに『どうしたら日本がW杯に行けるのだろうか』ということを考えるようになっていました」

 1993年5月15日のJリーグ開幕。そして10月28日の「ドーハの悲劇」。この強烈なコントラストによって、わが国におけるサッカーへの関心度は一気に高まっていった。Jリーグを成功させて、日本にプロサッカーを根付かせたい。そして日本代表には、W杯に出場できるくらい強くなってほしい――。

 そうした思いは、サッカーを愛する当時の人々の間で確実に共有されつつあった。だが、26歳のいちファンに何ができるというのか。当時の加藤には、皆目見当もつかない話であった。

いきなり日本代表の合宿に参加して

1994年のキリンカップに向けて、千葉県成田市でキャンプを張った日本代表のパウロ・ロベルト・ファルカン監督(右)。ブラジル帰りの三浦知良が監督の言葉を翻訳していた 【写真は共同】

 明けて1994年、日本代表監督はオランダ人のハンス・オフトから、ブラジル人のパウロ・ロベルト・ファルカンに代わった。

 単なるブラジル人指導者ではない。1982年W杯では、ジーコ、トニーニョ・セレーゾ、ソクラテスとともに「黄金のカルテット」の一角を担ったスーパースター。人生の転機が加藤に訪れたのは、新生・日本代表の活動が始まろうとしていた、まさにそのタイミングであった。

「あるとき、JFA(日本サッカー協会)の方から声をかけていただいたんです。JFAに広報室を新設するので、人を探していると。正直『自分でいいのか?』という気持ちは、もちろんありました。と同時に、挑戦するべきかなとも思いました」

 声をかけてきたのは、大学時代の恩師であり、JFAの強化委員会の副委員長だった加藤久。多くのメディアが代表チームの取材に訪れる状況が続いていたため、JFAでは代表チームに専属の広報を帯同させることを決定。そこからどういう経緯があったかは不明だが、日本でのW杯で働くことを夢見ていた加藤に白羽の矢が立つこととなった。

「ダイナスティカップやアジアカップでの優勝。それからJリーグが始まって、W杯出場まであと一歩のところまで来た。あの時期、ピッチの外側でもいろんなものが変わり始めていたんだと思います」

 その頃、加藤はアメリカのW杯でボランティアをしてから、イングランドで英語を勉強することを考えていたという。当初の計画を実行するか迷った末に、JFAの仕事に挑戦することを決断する。かくして、大手精密機械メーカーを辞した彼は、期待に胸膨らませながらJFAの門を叩くこととなる。

 当時のJFA事務局は、30人に満たない小ぢんまりとした体制。大きな試合があれば職員総出で運営をしている状態で、代表チームに広報を帯同させることは決まったものの、現場での役割については未整備なままだった。「だからこそ、僕のような未経験者が受け入れられた部分もあったと思います」と加藤は振り返る。

 そしてついに、代表広報のデビューの日が訪れる。この年の5月に予定されていたキリンカップに備えて、ファルカン率いる日本代表は千葉県成田市にて、新体制発足から2度目の合宿を行うこととなった。

 のちにJFAのメディアオフィサーとして、名波浩や中田英寿、中村俊輔ら何人ものレジェンドたちの代表デビューを見守ることとなった加藤。しかし、自身の広報デビューについては、苦笑まじりに「正直、何もできませんでした」と言い切る。

 ドーハの悲劇から7カ月。その余韻は、いまだ濃厚に現場に残っていた。加えて、ブラジルからやってきた新監督が指導する合宿である。普段は静かな成田のグラウンドは、時ならぬ大量の報道陣でごった返していた。そのなかに、右も左もわからぬ新人メディアオフィサーが投入される――。

「3日間の合宿でしたけど、毎日200人以上、延べ600人以上の方が取材に来ていただきました。現場にいるんだけど、自分が何をすればいいのかわからない。チームやメディアに何を求められているのかもわからない。目の前でいろんなことが起きているのに、それに対応できない自分がいて、時間だけが過ぎた感じでした」

 当然だろう。この時点での加藤は、監督や選手、そしてメディア関係者との関係性があったわけではない。加えて当時は、記者会見場やミックスゾーンのフォーマットも存在していなかったのだから。

 当時の代表取材の現場は、試合後の記者会見や囲み取材についての明確な決まりもなかった。試合後の記者会見には、監督とメディアの要請に基づいた選手3人が出席していたが、呼ばれた選手にまったく質問が出ず、怒って帰ってしまうこともあったという。

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著者プロフィール

1966年生まれ。東京出身。東京藝術大学大学院美術研究科修了後、TV制作会社勤務を経て、97年にベオグラードで「写真家宣言」。以後、国内外で「文化としてのフットボール」をカメラで切り取る活動を展開中。著書に『ディナモ・フットボール』(みすず書房)、『股旅フットボール』(東邦出版)など。『フットボールの犬 欧羅巴1999−2009』(同)は第20回ミズノスポーツライター賞最優秀賞を受賞。近著に『異端のチェアマン 村井満、Jリーグ再建の真実』(集英社インターナショナル)。宇都宮徹壱ブックライター塾(徹壱塾)塾長。

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