JFAメディアオフィサーが見た「もうひとつのW杯」

サッカー日本代表に広報がいなかった時代 知られざるオフト・ジャパンの取材現場

宇都宮徹壱

2026年5月15日に開催された日本代表のW杯メンバー発表会見。日本中の注目が集まる舞台を円滑に進めていたのがJFAのコミュニケーション部広報グループである 【宇都宮徹壱】

2026年5月15日の日本代表メンバー発表会見にて

 2026年5月15日。FIFAワールドカップ(W杯)本大会まで1カ月を切ったこの日、都内にてサッカー日本代表のメンバー発表会見が行われた。

 この日のメディア関係者は277人。内訳は、記者112人、フォトグラファー39人、ムービー126人(カメラ35台)であった。彼ら彼女らが注視する、壇上に座るのは3人。JFA(日本サッカー協会)会長の宮本恒靖、技術委員長兼ナショナルチームダイレクターの山本昌邦、そして日本代表監督の森保一である。

 やがて森保監督が、淡々とメンバーの名前を読み上げていく。ひとつひとつの名前に歓声が上がるわけでもない。PCのキーボードをカタカタと叩く音に、時おり感慨を抑制したため息が重なる。やがて26名の名前が読み終わると、すみやかに質疑応答へと移行する。

 厳粛な会場を巧みにコントロールしているのが、コミュニケーション部広報グループでSAMURAI BLUE(日本代表)のメディアオフィサーを務める知元明洋である。質問者の指名、時間管理、どの媒体にどの順番で質問を振るのか、予定外の流れにどう対応するのか。そこに迷いはない。

 余談ながら知元は、カタール大会直前にアキレス腱を断裂する大怪我を負い、メディアオフィサーとしてチームに帯同することが叶わなかった。あれから4年の歳月を経て、ようやくたどり着いたW杯の大舞台。おそらく選手とは違った意味で、広報である彼にも期するものがあったはずだ。

 さて、ここで「広報」という表現を用いたが、実は留意すべき点がある。知元らが所属するコミュニケーション部は、かつては「広報部」とも呼ばれていたが、単に日本代表のPRを行ってきた部署ではない。その職務領域は、一般的な意味での広報のみならず、取材対応、情報管理、危機対応、FIFAや他国の協会との折衝など、実に幅広い。

 この仕事の名称については、「メディアオフィサー」あるいは「報道担当」という表現のほうが実態に近い。ただし、どちらも(とりわけ後者は)一般の読者にはなじみの薄い表現であるのも事実。よって当連載では、あえて「広報」をメインに、状況に応じて「メディアオフィサー」という表現を用いることとする。

 日本代表にチーム付き広報が置かれたのは、実はそんなに昔の話ではない。今から32年前、すなわちアメリカでW杯が開催された1994年のことである。その前年、ドーハでのアジア最終予選での日本代表は「広報がいない状態」で、W杯初出場を目指していたことになる。

 当時の現場を知る人物に話を聞いた。総務としてチームに帯同し、ハンス・オフト監督の通訳も務めていた、鈴木徳昭。「今の日本代表からは、全然想像できないと思いますが」と断りを入れた上で、鈴木はこう続ける。

「当時、代表チームに広報という機能はなかったんです。JFAそのものには、広報という役職はありました。けれども、チームに帯同して動くメディアオフィサーはいない。だから、総務の仕事の中で、実質的には広報もやっていたという状態でした」

 当時の代表チームには、総務の他に主務というポジションがあり、20代の村山勉が担当していた。主務とは、チームの運営や事務を担う実務責任者であり、遠征や試合の手配、選手やスタッフの管理などを一手に引き受けるポジションである。

 総務である鈴木は、主務の村山に指示を出しながら、対外的な対応(メディア対応、試合運営、海外での折衝)の最前線に立ち、さらにはオフトのサポート(メディア向けの通訳、選手との意思伝達、現場の情報整理)にも尽力していた。これら膨大な仕事が、鈴木の双肩にかかっていたのが、1993年当時の日本代表の現場であった。

総務兼通訳が語るオフト時代の取材現場

日本代表史上初の外国籍監督、ハンス・オフトと総務兼通訳の鈴木徳昭(左)。当時の代表には専属のメディアオフィサーは不在で、総務と主務がすべての業務を担っていた 【写真は共同】

 日本代表監督の森保が、現役選手として出場していた1993年の「ドーハ」。そして岡野雅行の延長Vゴールで、イランとのプレーオフを制し、悲願のW杯出場を果たした1997年の「ジョホールバル」。これらは単なる都市名ではなく、当時を生きた日本のサッカー関係者にとって特別な意味を持っていた。

 ちなみに筆者自身でいえば、ドーハのときは社会人2年目、ジョホールバルのときはフリーランスになりたてで、いずれも現地には行っていない。よって、ドーハのときの日本代表の取材現場に関する鈴木の証言は、現代では想像できない話ばかりであった。

「今でこそ、代表にはそれぞれ専門のスタッフがいて、役割分担も明確ですけど、あの頃はそうじゃなかった。組織として整っていなかったという意味ではなくて、そもそも『どうやってチームを回すか』という考え方自体、まだ確立されていませんでした。遠征に行っても、裏方の人間は自分ひとり、ということも普通にありました」

 そう語る鈴木は1961年生まれで「ドーハの悲劇」当時は32歳。実は純粋なJFAの職員ではなく、日産自動車(サッカー部)に身を置く立場であった。

「(慶應)大学時代はサッカーをやっていたんですが、怪我のためにサッカー生命を断たれ、日産では一般入社でした。そうしたら、当時の監督だった加茂(周)さんから『サッカーの道でやってみないか』と誘われまして」

 最初はスクールのコーチや主務の仕事。やがて、強化と運営の両面を担うフロント業務にも関わるようになり、後の横浜マリノスの立ち上げに深く関与していく。ただし、日産時代の鈴木は、広報としての役割は求められてはいなかったという。そんな彼に、JFAからのオファーが届く。

「80年代の代表チームには、総務や主務さえもいなかったんです。誰かがやらなければということで『じゃあ自分が』と、ボランティアみたいな形で関わり始めました」

 最初は、石井義信が監督だった1986年。88年に就任した横山謙三監督時代も、日産に籍を置きながら代表活動期間限定で、総務や主務としてチームに帯同することとなる。やがてメディア対応も、気が付けば鈴木の担当となっていた。

 そして1992年、日本代表初となる外国籍監督、ハンス・オフトが就任。コミュニケーションは英語だったため、鈴木の仕事はさらに増えていく。

「別に英語が得意だったわけじゃないんですけどね。必要だからやる、という感じでした(苦笑)。広報という肩書ではなかったですけど、メディア対応もやっていました。取材の調整も、選手にどう対応してもらうかも自分の仕事でした」

 今であれば、総務もメディアオフィサーも通訳も、明確に役割分担ができている。しかしオフト監督時代は、総務の鈴木と主務の村山の実質2人で現場を回していた。

 オフトが代表監督に就任した1992年といえば、Jリーグ開幕を翌年に控え、空前のサッカーブームが起こる前夜であった。日本代表も、東アジア4カ国によるダイナスティカップ、さらには広島で開催されたアジアカップで優勝。これにより注目度は一気に高まり、メディアの数も以前では考えられないほど増加していった。

 そんな中、メディア対応に関しては、マニュアルも前例もない。あるのは目の前の状況だけであり、その都度判断しながら対応していくほかなかったのである。無茶ぶりとしか思えない、鈴木に課せられたマルチタスク。しかし当人は「腹をくくっていました」と振り返る。

「ある時期から、今後もこの世界でやっていくんだと。日産に戻るのではなく、サッカーで生きていくと決めていたから、できたんでしょうね」

 事実、鈴木は「ドーハの悲劇」の直後、退路を断つように日産から離れている。

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著者プロフィール

1966年生まれ。東京出身。東京藝術大学大学院美術研究科修了後、TV制作会社勤務を経て、97年にベオグラードで「写真家宣言」。以後、国内外で「文化としてのフットボール」をカメラで切り取る活動を展開中。著書に『ディナモ・フットボール』(みすず書房)、『股旅フットボール』(東邦出版)など。『フットボールの犬 欧羅巴1999−2009』(同)は第20回ミズノスポーツライター賞最優秀賞を受賞。近著に『異端のチェアマン 村井満、Jリーグ再建の真実』(集英社インターナショナル)。宇都宮徹壱ブックライター塾(徹壱塾)塾長。

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