「お前、今年でクビだな」コーチから非情通告…大病で引退覚悟も涙のノックで復活
藤田さんは父親。
原さんは兄貴。
1979年-2021年
四者四様の指揮官に寵愛された男が振り返るジャイアンツでの物語
私だけに見せた”喜怒哀楽”な素顔
岡崎郁著『長嶋さん、王さん、藤田さん。ときどき原さん 私と4人の巨人軍監督』から、一部抜粋して公開します。
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「思い出を作って大分に帰れ」
「這ってでも行かなければ……」
何とか多摩川グラウンドでの合同自主トレ初日には参加しましたが、案の定体がもうフラフラです。熱を測ってもらったら39度。直ぐに寮へ強制送還されてしまいました。
数日寝ても下がらない熱。病院に行かされてレントゲンを撮ってもらったらビックリです。右肺の下半分が真っ白で写っていないのです。医者からは「もう少し心臓に近い場所なら死んでいた」と言われ、告げられた診断結果は『胸膜炎』。もう自主トレだ、キャンプだと言っている場合ではなくなってしまいました。
大分に帰って赤十字病院に1ケ月半ほど入院。退院後もそのまま実家での療養となりました。練習をしたくても療養しなければいけない。やりたくても野球ができない故郷での毎日。実家の電話が鳴ったのはそんなときでした。
電話の相手は二軍監督の国松さん。電話を受けた父に国松さんが告げたのは、私が任意引退になるということ。つまり練習生、今でいう育成選手に降格したということです。当時の支配下枠は60人。実績もない、練習もできない若手選手のために貴重な枠を使うのがもったいないという球団の判断だったのだと思います。
私も父も「任意引退」というものが今ひとつよく分かっていませんでしたが、薄っすらと「今年限りでクビになるのかもしれない」ということは理解しました。
焦る気持ちもありましたが、焦ったところで何もできることはありません。激しい運動は禁止ですので、遊び程度のウエイトトレーニングをするくらいです。それでいて肺の病気は「とにかく栄養を摂らないといけない」と医者に言われていましたから、毎日のように鰻と焼肉の繰り返し。体重だけが18キロも増えてしまいました。ゴールデンウィークの頃にはジャイアンツ寮に戻ったのですが、新人だった水野雄仁は初めて私を見て「誰だこの人?」と思ったそうです(笑)。
戻ってきても相変わらず練習もできない療養の日々。多摩川のジャイアンツ球場には行きますが、心拍数が上がると肺に負担がかかるため走ることさえできず、できるのは草むしりと球拾い、あとは少しウエイトトレーニングをするくらい。現役時代を振り返るとこの頃が一番精神的にきつかったですね。4年間何も残せていない選手が5年目は練習もできないわけです。
「野球人生終わったな……」と思いました。
何もできないまま気がつけば8月が終わろうとしていました。二軍の残り試合もあと10試合ほど。
「お前、今年でクビだな」
自分でも薄々思っていたことを二軍守備・走塁コーチの須藤豊さんにはっきりと言われました。
「でもお前には野球しかねえな。あと1ケ月、死ぬ気でやってみるか? 野球がなかったら、お前は死んだのも一緒だろ?」
「激しい練習をしたら死ぬ」と医者からは言われていましたが、そんなことも忘れて気がついたら答えていました。
「死んでもいいからやりたいです!」
「じゃあ9月の最後の10試合、全部出ろ。思い出を作って大分に帰れ」
幸運なことに、当時のイースタンリーグには9月になったら練習生でも試合に出られるルールがあったのです。そこに出場するための練習が始まりました。
多摩川グラウンドで受ける久々のノック。ですが10球くらい受けたところで「はぁはぁ」と息が上がってしまう。全く体力がなくてとてもプロ野球選手のレベルではありません。それでもこのときはノックを受けられることが嬉しくて嬉しくて……。
巨人に入ってからは、野球というものが正直なところ辛かったんです。辛いけど仕事だからやらないといけない。「別に野球なんか好きじゃねえよ。仕事だからやってんだよ」と思っていました。でも須藤さんのノックを受けていて、「あぁ、俺は野球が好きなんだ」と思えたんです。野球ができなくなって、野球を取り上げられそうになって、初めてそのことに気付けた。須藤さんのノックを受けながら多摩川グラウンドにボロボロと涙がこぼれ落ちました。
それからも須藤さんは毎日毎日、もうすぐクビになって大分に帰ってしまうであろう私にノックを打ってくれました。このときの御恩は生涯忘れることはありません。
久しぶりにバッティング練習もしてみると、驚いたことがありました。打球が以前よりも飛ぶのです。それもものすごく。それまでの4年間でベンチプレスは最高でも80キロくらいしか上がらなかったのが、半年間ウエイトトレーニングだけはやっていたお陰でこの頃は118キロも上げられるようになっていました。体重が大幅に増えた上に筋力がついたことで、知らない間に自分でも驚くような「パワー」がついていたのです。
そんなパワーのお陰もあり、思い出作りのはずの9月の試合で打率は4割、ホームランは4本。この最後の10試合の活躍によって、私は何とかクビにされずに巨人に残してもらえることができたのでした。
書籍紹介
藤田さんは父親。
原さんは兄貴。
1979年-2021年
四者四様の指揮官に寵愛された男が振り返るジャイアンツでの物語
私だけに見せた”喜怒哀楽”な素顔
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