「入団拒否」一転 巨人の強行指名を受け入れるも、今も消えない「申し訳なさと罪悪感」
藤田さんは父親。
原さんは兄貴。
1979年-2021年
四者四様の指揮官に寵愛された男が振り返るジャイアンツでの物語
私だけに見せた”喜怒哀楽”な素顔
岡崎郁著『長嶋さん、王さん、藤田さん。ときどき原さん 私と4人の巨人軍監督』から、一部抜粋して公開します。
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「必ず君を育てて一人前にする」
「いやいや監督。岡崎君はまだジャイアンツに入ると決まっていません。法政大学に行きたいと言っています。そうお話ししたじゃないですか」
伊藤さんも苦笑いです。
長嶋さんは「え? そうなの?」と言わんばかりの感じで伊藤さんの話を聞いていました。
「3位の岡崎だけ入団を拒否している」ということは長嶋さんも聞いていたはずです。だからこそ「じゃあ俺が直接行って本人と話そう」ということになったはずですから。
「いや、いいんだ。岡崎君が大学に行くのもいいけれども、早くプロに入った方がいい。野球だけに集中できる環境もあるし、プロでやるのは早い方がいいんだ」
そんなことを言う長嶋さん。それを聞きながら、「いやいや、長嶋さんだって立教大学に行っていたじゃないですか」と思わないでもなかったですが(笑)。
長嶋さんに会うまでは自分から法政大学に断りの連絡を入れる可能性は0パーセントだと思っていました。ですがその決意が揺らいでいる自分がいました。長嶋さんが大分まで会いに来てくれただけでも半分お手上げ状態なのに、さらにこんなことを言われたからです。
「スカウトは『岡崎君は指名できません』と言った。でもなぜ俺が君を指名したかというと、夏の甲子園の横浜商戦の最終打席。ジャンボ宮城(宮城弘明・元ヤクルト)からレフト線に打った君のバッティング。あれを見て俺は決めたんだ。あのバッティングができる選手はいない。スカウトは反対したけれども、俺は自分の手で君を育ててみたいと思った。だから無理をしてでも指名したんだ。大学に行っても4年後に縁があるか分からない。今だったらジャイアンツに入れる。俺はこの先10年は監督をするから、その間に必ず君を育てて一人前にする。だからそこは心配するな」
長嶋さんにここまで言われて「それでも大学に行きます」と断ることができる高校生がいるでしょうか? 私にはできませんでした。本当はそれでも強い信念を持って法政大学に義理を果たさなければならなかったと思いますが。もしかしたら、長嶋さんも「俺が大分まで行って直接会って話をすれば、大学側に断る口実ができるだろう」という考えもあったのかもしれません。
私は自分の野球人生を長嶋さんに預けようと決めました。おそらく父もそう思ったはずです。ただ法政大学に自分ごときがお断りの連絡を入れても納得してはもらえないはずです。そこで長嶋さんに一つだけお願いをさせていただきました。
「法政大学に僕が謝るだけでは多分納得してもらえないと思います。僕も断り切れません」
父が続きました。
「長嶋監督からも直接鴨田監督に経緯を伝えてください。条件としてはそこだけです。それをしていただけるのであれば息子はジャイアンツにお世話になります」
「2、3日時間を下さい」と返事をして、ゆっくり父と相談してから返答するのが普通なのかもしれません。ですが長嶋茂雄がわざわざ大分まで来てくれているのです。今でさえ大分空港から私が生まれ育った大分市までは相当遠いのに、あの当時は高速道路も整備されていませんから一般道で2時間以上はかかります。東京からの移動を考えれば1日仕事です。忙しいスケジュールを私だけのために丸々1日空けて会いに来てくれたのです。それを考えると返事を一旦保留するなんてできない。即決しないといけないと私も父も思っていました。
長嶋さんの返事は一言。
「よし分かった」
それですべてが決まりました。長嶋さんと話したのは1時間半から2時間くらいだったと思います。あっという間でした。
その後は「よし、食事に行こう!」と言われ、長嶋さんのハイヤーでお隣の別府市にある『ホテル白菊』に連れて行かれ、高級なふぐ料理をごちそうになりました。道中、車の後部シートでは長嶋さんと二人きり。緊張で何を喋ったのか全く覚えていません。車内の酸素がやけに薄かった記憶だけがあります。息できないですよ、そりゃあ。
長嶋さんは大皿に盛られたふぐの刺身をガサーっと箸でつまんで美味しそうに頬張られていました。でも高校生の私は正直ふぐなんて食べたこともないですし、高級料理だと言われても今ひとつピンと来ません。「焼肉の方が良かったなぁ……」、そんな罰当たりなことを思っていました。
契約金はドラフト1位と同じにしようとか、背番号はあとで伝えるとか、食事をしながら長嶋さんはそんな話をしてくれました。
最終便の飛行機で長嶋さんは帰られました。
長嶋さんのいなくなった岡崎家の居間には重い重い空気が流れていました。私と父には法政大学の鴨田監督にお断りの連絡をいれるという大仕事が待っていたからです。あのときほど電話のダイヤルを回す手が憂鬱だったことはありません。
「申し訳ありません。どうしても断りきれませんでした。すみません……」
正直にそんなことを話しました。怒鳴られ、罵倒されることも覚悟して、鴨田監督の言葉を待ちました。
「そうか。良かったじゃないか」
意外な言葉に驚きました。鴨田監督は声を荒げるでもなく、恨み言や嫌みを言うわけでもなく「期待しているぞ。頑張れよ」と背中まで押してくれたのです。その言葉を聞いて感情が込み上がり、私は「すみません……」という言葉しか出てきませんでした。内心は「ふざけるな!」と怒っていたと思います。それでも一切を飲み込んで期待の言葉をかけてくれた。これが大人の男の対応なのだと高校生ながらに思いました。
受話器を置くと私の気持ちは申し訳なさと罪悪感でいっぱいです。少なくとも安堵するような感情にはなれませんでした。いっそのこと怒鳴られ、罵倒された方が気持ちは楽だったかもしれません。
鴨田監督だけでなく、母校の後輩達にも申し訳ないことをしたと思っています。その後も大分商業から明治大学へは現在広島で活躍している森下暢仁など何人か進学しているのですが、法政大学に進学したという話を聞かないからです。それはたまたまなのかもしれませんが、後輩達に謝りたい、申し訳ないという気持ちは今でも消えることはありません。
書籍紹介
藤田さんは父親。
原さんは兄貴。
1979年-2021年
四者四様の指揮官に寵愛された男が振り返るジャイアンツでの物語
私だけに見せた”喜怒哀楽”な素顔
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