あの日、自分を信じる強さがあったなら… 海外女子メジャーでの日本勢旋風、小林浩美が明かす「原点」
1994年、全米女子プロゴルフ選手権。小林浩美は最終ラウンドで4つスコアを伸ばし、通算1アンダーの3位で海外メジャー戦の終盤戦を迎えていた。
首位のローラ・デイビスの背中が見えてきた。もうひと伸ばしすればーー。懸命に攻める中で、17番パー3で最大のチャンスがめぐってきた。
だが、急に迷いが生じた。ずっと追い続けてきた夢、海外メジャー制覇が急に現実味を帯びたからだ。
本当に切れないのか…?自分を信じられなくなった。腹が決まらないままに、スライスラインで打ってしまった。
やはり、切れなかった。ボールはほぼまっすぐ転がり、カップの左横をすり抜けた。
日本はなぜ、アメリカのような環境じゃないのか
「その前年、1993年の全米女子オープンでは、3日目、最終日と2日続けて最終組でプレーしました。優勝争いを終盤ホールまで続けたのですが、4位で終わりました。16番ホールと18番ホールを攻めすぎてスコアを落としてしまったからです。結局、気持ちが強く出てしまい、勇み足で負けちゃった、と振り返ってみて思いました」
全米女子プロ選手権の3位、そして全米女子オープンの4位はともに、順位はパーソナルベストになった。だが、残ったのは悔しさのほうが大きかった。
「アウェー感みたいなものは決してなかったんですよね。日本の中継局の方もいらっしゃっていましたし、出場している日本勢もそれなりに多かったので、応援する空気のほうを強く感じたんですけど…つまりはシンプルに、自分の力が足りなかった」
肉体的なスタミナ、そして精神的なスタミナを、長丁場の中でもいかに保つか。その前提として、高いレベルで安定した技術力が必要。そう強く感じた。
試合を重ねていくうちに、自然とひとつの考えが頭をもたげた。日本ツアーはなぜ、アメリカツアーと同じ環境にないんだろうーー。
ずっと続く「はじめまして」みたいなこと
「4日間の大会は、当時年間4、5試合でした。でも、アメリカでは、私が渡米した1990年当時でも、3分の2以上が4日間大会だったんですよ」
海外メジャーともなれば、コースセッティングの厳しさがより選手の心身を削る。長丁場の場数が、普段以上にモノを言う。
違いはコースの中だけにとどまらない。となれば、順応しなくてはいけないポイントをおのずと増える。
「だから、初年度は『初めまして』みたいなことが、ずっと続くんですよね。米国ツアーに慣れるまではかなり年数がかかる。自分の力がようやく発揮できるのは、そこからです」
能力は高いから…会長としての「役割」
小林は徐々にアメリカに順応し、やがてツアー戦で優勝も重ねるようになった。だが、全米女子オープンや全米女子プロでリベンジを果たすことは、ついにできなかった。
日本人選手が海外メジャーで勝つには、国内でプレーする段階から4日間大会に慣れておかないといけない。逆に4日間大会をもっと増やせれば、世界のメジャーで勝てるような選手も育ってくるはず。そう思うようになった。
2011年。小林はツアー中興の祖である樋口久子のあとをうけ、日本女子プロゴルフ協会の会長に就任した。
「私の会長としての役割ってなんだろう、って考えました。私は日本のツアー歴5年に対して、アメリカのツアーでは13年やってきた。やっぱりアメリカでの経験、知見を日本に還元することじゃないか、と」