スカウトが振り返る、あの年のドラフト指名

「塩まいて帰らせ!」高校野球の名将を激怒させた、1位指名を巡る紆余曲折 元中日スカウトが明かすドラフト秘話

永松欣也

ヒーローインタビューで井端(右)とともにお立ち台に立った朝倉 【写真は共同】

 毎年多くのドラマを生むプロ野球ドラフト会議。あの年の1位はどのようにして決まったのか? あの選手をどのように評価していたのか? あの選手はなぜ指名しなかったのか? 1996年から2003年、2019年から2021年まで中日でスカウトを務めた近藤真市氏に、選手指名秘話やドラフト舞台裏などを振り返ってもらった。

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星野監督に厳命された岩瀬の獲得

スカウトの近藤氏は1998年は「他の仕事は何もしない」と言えるほどに岩瀬(右)の獲得に注力した 【写真は共同】

 スカウトになって3年目となる1998年、私に与えられた最大のミッションはNTT東海の即戦力左腕・岩瀬仁紀を逆指名で獲ることでした。前回お話したとおり、大学時代は「野手」として下位指名を予定していた岩瀬が社会人で「投手」として大きく成長していました。「地元の逸材」を中日が逃すわけにはいかなかったのです。

 監督の星野さんにも「今年は名古屋に良い左ピッチャーがおるらしいな。獲れるまで帰ってくるなよ!」と発破をかけられました。「獲れるまで帰ってくるな」と言われても、私は名古屋に住んでいたんですけどね(笑)。

 岩瀬の魅力は真っすぐにしてもクセ球であること。そしてあのスライダーです。あのボールは打てないと思いました。この年は3年前から追い続けていた日本生命の福留孝介の逆指名1位が既定路線でしたが、その福留も担当スカウトの中田さんに「NTT東海の左ピッチャーはすごいですよ。あのスライダーは打てませんよ」と言っていたそうです。それが球団と星野さんの耳に入ったことも、岩瀬の評価をさらに上げることにつながりました。

 岩瀬の獲得には阪神と日本ハムも熱心で、逆指名1位を用意して獲りに動いていました。そんななかで私は逆指名2位で岩瀬の獲得に動いていたのですから、いくら地元の利があると言っても簡単なミッションではありません。

 ですので、この年は「他の仕事は何もしていなかった」と言えるほど、岩瀬一本で動いていました。例えば、大学選手権はどの球団のスカウトも神宮まで見に行くものですが私は行きませんでした。岩瀬にベタ付きするためです。他球団の親しくしていたスカウトの方にしてみたら「あれ? 近藤が来てないぞ」となりますから、当然電話がかかってきます。

「お前、岩瀬に会っているんじゃないだろうな?」そんな探りを入れられましたけど、「そんなに心配なら大学選手権じゃなくて名古屋に来たらいいじゃないですか」という話なんですけどね。

 今だから言えるのですが、実は岩瀬は巨人ファンでした。「巨人ファンではあるけど地元の中日に行きたがっている」という情報もキャッチしていましたが、それでも巨人が本腰を入れて獲得に動いてきていたら太刀打ちできたかは分かりません。ですがこの年の巨人は超目玉の上原浩治(大阪体育大/巨人逆指名1位)と二岡智宏(近畿大/巨人逆指名2位)のダブル獲りに動いていましたから、さすがに岩瀬まで獲りには動いていませんでした。岩瀬獲得を厳命されていた担当スカウトにとっては幸運でした。

 この頃の私は打撃投手を辞めて2年経っていたこともあって、ものすごく太っていました。星野さんにも「そんなに太りやがって。スカウトで楽しとるな!」なんて言われるほどでした。ですがこれが幸いしました。体が大きくなった私は球場のどこにいても目立っていたようで、「また来ているな」「この試合も観に来ているのか」と岩瀬はマウンドから分かったと言います。岩瀬が打たれようが抑えようがどの球場にも観に行く。それを岩瀬にアピールする。それも私の仕事です。「こんな所まで来てくれている!」と思われたらしめたものですよ。

岩瀬が長く現役を続けられた理由

岩瀬が現役を長く続けられたのは、山本昌氏も通っていた鳥取のワールドウイングだという 【写真は共同】

「山本昌さんももう33歳。後釜としてドラゴンズで先発として頑張ってくれないか」

 それが岩瀬への口説き文句でした。そこから昌さんがまさか17年も現役を続けるとは思っていなかったですからね(笑)。「お前、俺をクビにさせるなよ!」って昌さんにも怒られました。

 この時代は逆指名を取り付けるために派手にお金が飛び交っていた時代です。ですがこのときはマネーゲームはやりませんでした。1位の福留と同じ条件にはしましたけど、契約金1億円+出来高5000万円、年俸1300万円の限度内の金額しか提示していません。岩瀬が中日を選んでくれた理由はお金ではなく、大学時代から熱心に追っていたこと、地元でやりたいという気持ちが強かったこと、それが大きかったのだと思います。

 担当スカウトとして、入団が決まった岩瀬にはすぐに通わせたのが昌さんも通っていた鳥取のワールドウイングです。そこで代表の小山裕史さんと縁ができて、現役時代はずっとそこでトレーニングをしていました。長く現役を続けられたのは、これが一番大きかったと思いますね。

 岩瀬は先発で10勝できるピッチャーだと評価しましたし、スカウト会議の席で星野さんにもそのことは話していました。そもそも性格的に優しいところがあるので抑えは無理、先発しかできないだろうと思っていましたから。

 それが開幕戦からリリーフで使われたのですから驚きました。1点をリードした6回表、二死二塁の場面で開幕投手の川上憲伸に代わってマウンドに上がったものの、一死も取れずに降板。苦いプロデビューとなりました。

「え! こんな場面で岩瀬を使うの!?」と正直思いました。こっちは先発で使えば10勝できると思っていましたからね。ですがこの年から投手コーチで来られた山田久志さんが岩瀬に与えた役割はセットアッパー。岩瀬があれだけの成績を残せるピッチャーになれたのは山田さんの決断と、それに口を挟まなかった星野さんのお陰ですね。

 落合博満監督時代に岩瀬はクローザーになりましたが、その頃は私も一軍の投手コーチとしてブルペンでともに過ごしました。クローザーは自分の出番は9回だと分かりますし、1回から始まって8回まで時間があるのでルーティンを作れます。そこでしっかりと準備ができるから体が持つ。だからこそ1000試合も投げられたのだと思います。

 そういう意味ではいつ投げるのか分からないセットアッパーを長く続けることは難しいですね。岩瀬もセットアッパーのままだったら、あれだけ長く投げ続けることができたかどうか。岩瀬にとっても良いタイミングで落合監督、森繁和コーチに抑えに抜擢してもらったと思います。そういった指導者との出会いも一つの“縁”なのでしょうね。

 ちなみに岩瀬から手を引いた阪神が1位で指名したのが高知商の藤川球児でした。前年まで私は四国担当も兼務していましたから当然観ていましたし、もちろん欲しい投手でした。中日は福留と岩瀬のダブル獲りに動いていましたから獲るとすれば3位でしたが、とても3位までには残っている素材ではなかったですね。

 時間はかかりましたが、あそこまでのすごいストレートを投げるストッパーになる姿までは見えていませんでした。阪神に入団してコーチの山口高志さんに出会えたことが大きかったと思います。藤川には阪神と“縁”があったということでしょうね。

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著者プロフィール

1976年、大分県速見郡生まれ。多くのスポーツサイトの企画・編集、ディレクターなどを経てフリーランスに。現在は少年野球、高校野球サイトのディレクターを務めながら書籍の企画・編集も行っている。主な書籍は『星野と落合のドラフト戦略』『ジャイアンツ元スカウト部長のドラフト回想録』『回想 ドラゴンズでの14年間のすべてを知る男』など。

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