「名前を覚えてもらうため」 戸﨑圭太、新人時代に異例の“営業活動”
大井競馬場で頭角を現し、JRAでも数々のビッグレースで結果を残してきた。
その華やかな実績の裏には、挫折や苦闘、遠回りの日々があった。
書籍『やり抜く力 天才じゃなくてもトップになれた「ベリベリ」シンプルな理由』(戸﨑圭太著)より、一部を抜粋してお届けします。
※リンク先は外部サイトの場合があります
憧れの石崎さんにバレットを買って出る
ただし、調教で役に立てないぶん、馬を下りてからの僕の働きはすごかったと思う。若手だから厩舎作業を率先してやるのはもちろん、馬房を掃除するにしても、時間をかけて隅から隅まできれいにして、決して適当に終わらせなかった。
また、当時はバレット(レース当日、鞍の準備や勝負服の管理、鞭の手入れなど騎手の雑務全般のサポート役)をつけているジョッキーは少なかった。そうしたなか、僕は実習生時代から先輩ジョッキーの装鞍や鞍掃除をみずから買って出て、とにかくよく動き回った。我ながらよく働いていたなぁと思うが、それもこれも「戸﨑圭太」という名前を覚えてもらうため。営業活動といえばそれまでだが、先輩に顔と名前を覚えてもらえば、きっと回りまわって騎乗機会につながると信じて疑わなかったし、馬乗りで目立てない僕には、それしか手段がなかったともいえる。
船橋から大井によく乗りにきていた石崎さんにも、みずから「戸﨑圭太です。お手伝いしましょうか?」と声をかけ、鞍の掃除を手伝わせてもらうようになった。今思うと、新人がずいぶん大胆な行動に出たものだと思うが、石崎さんから学びたいという気持ちがとても強かったのだ。
なぜ石崎さんだったのかと聞かれれば、とにかくカッコよかったからとしかいいようがない。レースぶりはもちろんだが、普段は寡黙で職人然としたオーラをまとっていて、ただそこにいるだけで、ものすごく雰囲気のある方だった。いつしか毎レースの鞍掃除をさせてもらうまでになったのだが、そんな僕をとても可愛がってくれて、僕の憧れメーターはさらに加速。以来、僕が目指すジョッキーは“石崎隆之”となった。
名前を覚えてもらうことに必死だった僕は、小林分場(大井競馬小林牧場)の調教師にも積極的に挨拶し、みずから手伝いを申し出たりもした。
小林分場とは、千葉県印西市にある大井競馬のトレーニングセンターで、そこに厩舎を構えている調教師とはレースのときにしか会えない。だから、開催日には必ず装鞍所に顔を出して、「戸﨑圭太です。お手伝いさせてください!」と自分を売り込み、装鞍などを手伝って回った。
小林分場の厩舎の馬には、同じ千葉県に競馬場がある船橋の所属ジョッキーが乗る傾向があり、当時は大井だけでも50人近いジョッキーがいたので、ひとつ乗るのも大変な時代だった。それでも、営業活動が奏功したのか、僕は最初の頃から小林分場の馬に乗る機会を得られた。新人ジョッキーとしては、かなりめずらしいことだったように記憶している。
調教では逃げ回りつつ、こうして名前を売ることとお手伝いを繰り返し、僕という人間を知ってもらうことで足場を固めていった。リーディングを獲るという目標がある以上、もちろん先を見据えての行動ではあったが、そこに大した計算はなく、僕にはこれしか手段がなかったからに過ぎない。
ただ、ここでも役立ったと思えるのが、母親から受け継いだコミュニケーション能力だ。目上の人、はじめましての人、それこそ石崎さんが相手でも、とくに臆することなく自然に振る舞えたように思うから。
デビュー当時から、馬主さんや調教師とコミュニケーションを取ることもまったく苦ではなかった。お礼をいうときもそうだし、単なる挨拶のときも自然に頭を下げられる。僕にとっては当たり前のことで、無理をしているわけでもゴマをすっているわけでもなかったのだが、人によっては媚びを売るような営業に見えたらしく、ある日「何であんなことができるの?」と聞かれたことがあった。
でも、「あんなこと」といわれたところで僕にとっては普通のこと。ごく自然な立ち居振る舞いだったのだが、その言い方には明らかに批判が込められていたので、そんな見方をされることもあるんだなぁと、ちょっと面食らった覚えがある。