高校野球 令和の継投論

ドラ1右腕・石垣元気はなぜ北海道→群馬の高校へ? 3年夏はリリーフ専念、きっかけは医師の助言

大利実

【写真は共同】

 カウント途中での継投、「雨が降る前に傘を差す」早めの継投、マシンガン継投、選手の身体を守る継投、もしくはエースと心中……果たして正解は?令和の高校球界で戦う監督8人が答える。

『高校野球 令和の継投論』から健大高崎高校・青栁博文監督の章を一部抜粋して公開します。

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北海道選抜でチームメイトだった下重賢慎と石垣元気

 2025年春のセンバツは、優勝候補の一角に挙がっていたが、準決勝で横浜に1対5で敗退。佐藤はトミー・ジョン手術明けで、まだ投げられる状態ではなく、さらにセンバツ直前の練習試合で石垣が左わき腹を痛めるアクシデントに見舞われ、左腕の下重にかかる比重が大きくなった。

 青栁監督によると、わき腹痛はウォーミングアップ不足で起きたもの。練習試合当日、風邪気味だった石垣はコンディション面を考えて、登板しない予定だった。それが、現地に着いてから登板を志願し、いつもよりも短いアップ時間で試合に臨むことに。準備の大切さを痛感するケガとなった。

 下重は2年春のセンバツではベンチを外れたが、その直後の春の群馬大会、関東大会で好結果を残した。関東大会の宇都宮商戦では、初回の二番打者から8者連続三振を奪う快投を見せ、首脳陣に大きくアピール。キレのいい変化球が持ち味で、試合を作る能力に長けている。

 下重と石垣は、ともに北海道出身で中学2年生の冬に組まれた北海道選抜でチームメイトとなり、12月に久米島で開催されたリトルシニアの選抜大会に出場している。同時期に石垣島で合宿を組んでいたのが健大高崎で、青栁監督は当時リクルートを担当していた赤堀コーチとともに視察に訪れた。最大の目的は、「好左腕」と評判を聞いていた釧路シニアの下重をチェックすることだった。

 ところが、まったくノーマークだった洞爺湖シニアの石垣が投じるストレートに一目惚れして、下重と石垣の2人に声をかけることになった。当時の石垣は171センチ61キロとまだ華奢な体だったが、130キロを超えるストレートをバンバン投げ込んでいた。洞爺湖シニアの監督が、青栁監督と同じ東北福祉大のOBで後輩だった縁もあり、石垣の健大高崎入学が決まった。

 下重は「入学してから石垣とのレベルの差がどんどん開いて、『こんなはずじゃなかったのに』と焦りもあった」と明かすが、体作りと変化球を磨くことに重点的に取り組み、徐々に頭角を現してきた。

 3年春センバツでは、初戦の明徳義塾戦で先発のマウンドを任されて、延長10回までひとりで投げ抜き、3対1とロースコアの接戦をモノにした。さらに続く敦賀気比戦でも先発し、9回二死まで3失点の好投。最後は、復帰登板となった石垣がオールストレートでねじ伏せて、4対3で勝利した。

 準々決勝の花巻東戦では、「ここでほかのピッチャーを投げさせないと優勝はない」と、青栁監督は技巧派左腕の山田を先発に抜擢。山田は5回1失点と試合を作ると、駿台学園中時代に日本一の経験を持つ右腕の島田が2イニングを抑え、8回からは石垣が締めた。前年に優勝したときよりも、明らかに投手陣の層は厚くなっていた。

 なお、山田に加えて、キャプテンでショートを守る加藤大成も北海道出身。1年時には石垣、下重、加藤、山田の北海道組4人が同部屋となり、仲を深めてきた。先輩たちがこれだけ活躍すれば、「自分も健大で野球がやりたい」と思う北海道の中学生が出てくるのは自然な流れと言えるだろう。この話はまた後述したい。

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著者プロフィール

1977年生まれ、横浜市出身。大学卒業後、スポーツライター事務所を経て独立。中学軟式野球、高校野球を中心に取材・執筆。著書に『高校野球界の監督がここまで明かす! 走塁技術の極意』『中学野球部の教科書』(カンゼン)、構成本に『仙台育英 日本一からの招待』(須江航著/カンゼン)などがある。現在ベースボール専門メディアFull-Count(https://full-count.jp/)で、神奈川の高校野球にまつわるコラムを随時執筆中。

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