24年センバツV左腕が夏にトミー・ジョン手術 名医が健大高崎監督に指摘した起用法の問題
『高校野球 令和の継投論』から健大高崎高校・青栁博文監督の章を一部抜粋して公開します。
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2年生エース・佐藤龍月のトミー・ジョン手術
ただ、激闘の代償は大きかった。
青栁監督が、佐藤の口からヒジの異変を聞いたのは、優勝を果たした直後のことだった。左ヒジが曲がらない。トレーナーからも報告を受けて、すぐにメディカルチェックを行い、最終的には日頃からお世話になっている慶友整形外科病院で「左肘内側側副靭帯損傷」「左肘の疲労骨折」という診断を受けた。優勝した3日後の7月30日のことである。
翌31日には各スポーツ新聞に、甲子園のメンバーから外れることに加えて、「治療としては、保存療法と手術の2つが考えられるが、もともと関節に緩さがあり、それを安定させることもできるトミー・ジョン手術を行う見込み」という記事が掲載された。
センバツ優勝投手、そして来秋のドラフト候補が高校在学中にトミー・ジョン手術を受ける。ショッキングなニュースとして、全国に広まっていった。
「佐藤はもともと左ヒジの靭帯が緩く、ケガのリスクを持っていたピッチャーでした。だから、練習試合では連投をさせずに、完投するにしても球数が100球を超えないように気を配っていました」
高校入学後の4月、健大高崎の新入生はエコー検査(超音波検査)でヒジや肩のメディカルチェックを受ける。1年冬、2年冬と、計3回の定期診断があるが、佐藤は最初の診断で靭帯の緩さを指摘されていた。担当医からは、「3年間持つかどうかわかりません」とはっきり言われたという。
練習試合ではイニング数や球数を管理できても、公式戦となるとそうはいかない。佐藤は1年秋からエース格となり、石垣とともに投手陣を引っ張る中心的立場となった。前述したセンバツでは、5試合23イニングに登板している。「もう一枚ピッチャーがいれば、もう少し負担を軽減できた」と青栁監督は振り返るが、当時は佐藤と石垣に頼らざるを得ない状況だった。
「2年生の夏、佐藤のストレートのスピードがかなり落ちていました。正直、どこか痛いのかなとも思ったんですけど、本人に聞くと『大丈夫です』と。群馬大会決勝の前も『いけます』と。2年生でエース番号を背負って、3年生とともに戦う責任感を強く感じていたんだと思います。もっと、佐藤の気持ちを察してやるべきでした。佐藤の言葉だけを信じるのではなく、動作の変化にも気付いてやらなければいけなかった。あとは、トレーナーとの連携をもっと深めていかなければいけない。佐藤のケガで、指導者として感じたことがいくつもありました」
本人がヒジに強い痛みを感じたのは、3回戦の桐生第一戦の試合後だった。
先発として7回途中まで137球を投げたあと、一旦は外野に回り、9回途中に再びマウンドに戻った。試合後、「シャンプーをするために左手を挙げることすらできなかった」と明かす。その後は先輩からもらった痛み止めを飲みながらのピッチングとなり、準決勝では先発で2イニング投げたあと、9回途中から四番手としてマウンドへ。中1日空いた決勝では石垣(6回)から佐藤(3回)のリレーで前橋商を下した。そして、ヒジの痛みを指導者に初めて伝えた。
タイミングとしてはもう少し早く伝えることもできたが、佐藤自身は「決勝が終わってから」と心に決めていた。
「2年生でエースナンバーを背負わせていただいて、そのエースが“痛い”と言ってしまったら、チーム全体に不安が出てしまう。甲子園に行くまでは我慢をして、と思っていました。チームで甲子園に行くのが目標で、そのために自分が少しでも貢献したいという気持ちで投げていました」
個人の事情よりも、チームのために腕を振る。エースとしての強い責任感。「甲子園出場」という責任を果たすまでは、周囲に漏らさなかった。
とはいえ、決して、ケガのことを言いづらい雰囲気のチームではない。指導者の言葉に「はい」しか言えない雰囲気はまったくなく、ピッチングの調整も個々に任されている。ほかの強豪校に比べて、自らの意思を通しやすいチームではある。
佐藤自身が「もっと早く明かしていれば……」と思うことはないのだろうか。
「それは思わないです。(そこの後悔は)一切ないです。あのときの自分は、やり切ったと思っていたので。あと、もともとヒジの靭帯が緩いらしくて、あのときに手術をしなくても、どこかのタイミングで決断しなければいけなかったと思います」
佐藤不在の甲子園は、初戦で下重、石垣の無失点リレーで英明を下した。2回戦の智辯学園戦では、県大会でベンチを外れていた杉山優哉(駒沢大)、県大会で3イニングの登板に終わった仲本暖(桜美林大)が5回途中まで1失点と試合を作ったが、9回に石垣が決勝打を打たれて、1対2で惜敗した。