チームに不可欠なピース――ユーティリティープレーヤーの価値

W杯ではユーティリティーな選手が多いほど有利…今野泰幸が語る代表時代の葛藤と喜び、森保ジャパンのキーマンは?

元川悦子

日本を代表するユーティリティープレーヤーの今野。W杯に2度出場し、43歳の今も南葛SCの現役選手としてピッチを駆け回っている 【撮影:元川悦子】

 2026年北中米ワールドカップの開幕が6月に迫るなか、遠藤航(リバプール)や南野拓実(モナコ)ら主軸に負傷者が相次ぎ、森保一監督も頭を悩ませていることだろう。そこで重要なのが、ユーティリティープレーヤーの存在だ。複数のポジションをハイレベルでこなすタレントの存在が、戦い方の幅を広げてくれるに違いない。

 過去の日本代表にも、そうした万能性をいかんなく発揮した選手がいた。その筆頭格が、2度のW杯に出場した今野泰幸である。ボランチを皮切りに、センターバック、ストッパー、サイドバックをこなした彼を、時の代表監督たちは重用した。さまざまな環境で重要な役割を果たしてきた今野に、ユーリティリティープレーヤーとして葛藤や喜びを振り返ってもらうとともに、森保ジャパンで期待する選手を挙げてもらった。

明神と稲本を足して2で割ったような選手に

――今野選手は少年時代から複数のポジションでプレーしていたのですか?

 小学校低学年の時はFWで、5、6年の時は4-3-3のインサイドハーフがメインでした。当時のこのポジションはトップ下とボランチの役割を全部やるようなイメージで、幅広いプレーを求められました。

 中学時代はまたFWに戻ったんですけど、高校に行ってからはほとんど定まらなかった。ボランチもサイドハーフもやったし、もうポジションがない感じ(苦笑)。一般入試で東北高校に入ったんで、監督は僕の存在を意識していないし、特徴も理解していなかった。だから、どう使えばいいのか分からなかったんじゃないかなと。GK以外は全部やったと言っても過言ではないくらいです。

――ボランチが主戦場になったのは?

 高3です。高2の時はセンターバックでエースキラーの役割を任されていました。それも同級生の主力がケガをして、たまたま「お前、行け」とチャンスを与えられたのがきっかけでした。その試合で完封して「けっこうやるじゃないか」と監督の見る目が変わった。自分には特別な才能がないから、粘り強さとか我慢強さで勝負するしかないと思っていましたけど、そこを評価してもらえたんじゃないかという気がします。そして3年になってからは1つ下にいいセンターバックが育ってきたんで、一列前に上がりました。その選手と僕のタテ関係がチームの安定感につながったと自分なりに考えています。

――そこから当時、コンサドーレ札幌を率いていた岡田武史監督の目に留まるわけですね。

 そうですね。キャンプに参加した時からずっとボランチで起用されていました。当時の僕は明神さん(智和/ガンバ大阪コーチ)の守備と稲本さん(潤一/川崎フロンターレU-18コーチ)の攻撃を掛け合わせた選手になりたかった。

 まず明神さんは(フィリップ)トルシエ監督の日本代表で、守備職人として異彩を放っていました。加えて、右ウイングバックもそつなくこなしていた。一見、派手さはないけど、試合でものすごく効いていた。自分もその方向を目指したいと思ったんです。

 一方で、稲本さんのダイナミックさやチャンスに絡む仕事ぶりにも憧れました。2002年日韓W杯で2点を取りましたけど、本当に華やかで勝負強かった。両面を持ち合わせたボランチを目指そうと決意しましたね。

――2003年U-20ワールドユースの今野選手は「明神+稲本」を体現していました。特に韓国を破った決勝トーナメント1回戦では中盤を縦横無尽に駆け回り、ゴールデンゴールをアシスト。“スーパーコンちゃん”の異名通りの強烈なインパクトに残し、2004年アテネ五輪代表をつかみ取りました。

 そう言ってもらえるのは嬉しいですけど、正直、僕自身はコンプレックスだらけだったんです。後ろからボールを受けて前につなぐプレーは下手だったし、ビルドアップ力や展開力も決して高いと言えなかったから。監督の大熊さん(清/京都サンガF.C.GM)、アテネ五輪代表監督の山本さん(昌邦/日本サッカー協会技術委員長)はそういうところに目をつぶって、僕のいい部分を出すように仕向けてくれました。

 五輪代表に呼ばれるようになってからは、ボランチには阿部ちゃん(勇樹/浦和ユース監督)や(鈴木)啓太さん、森崎兄弟(和幸・浩司)なんかがいて、みんなメチャクチャうまかった。そういう中、自分は感覚を信じてボールを奪いにいって、近くの選手にパスをつなぐことを徹底していました。その長所を買われて、アテネ五輪最終予選と本大会は全試合フル出場させてもらった。本当に感謝しています。

ポリバレントな選手が脚光を浴びたオシムジャパン

ポリバレントな選手を評価するオシム監督によってストッパーやサイドバックとして起用され、国際経験を積んだ 【Photo by Koichi Kamoshida/Getty Images】

――日本代表デビューは1年後、2005年8月の東アジア選手権でした。

 アテネ五輪からA代表デビューまで1年かかりましたけど、その間はクラブだけの活動で、ポッカリと穴が空いたような感覚でした。「A代表に入りたいけど、足りない部分があるから呼ばれないんだろうな」ともいうのも分かっていた。自分は代表ボランチの選手たちを見て学ぶことを心掛けました。

 ジーコさん(鹿島アントラーズアドバイザー)のチームには、中田ヒデ(英寿)さんや福西さん(崇史)、小野伸二さん、イナさん、小笠原満男さん(鹿島アカデミー・コーチ兼アドバイザー)、ヤットさん(遠藤保仁/ガンバ大阪コーチ)と、そうそうたる面々がいました。ボールを奪う、幅広いスペースを埋めるといった部分は勝負できると考えていたけど、ジーコさんは得点に絡める能力を兼ね備えている人じゃないと呼ばないと感じました。2006年ドイツW杯から外れた時も、「彼らを超えていかなきゃダメなんだ」としみじみ思いましたね。

――2006年にオシム監督が日本代表監督に就任すると、今野選手はA代表に定着しました。当時「ポリバレント」という言葉も流行りましたが、追い風が吹き始めましたね。

 オシムさんの一発目の代表メンバーに自分の名前があった時は「ようやく来た」と思いました(笑)。実際に練習に参加してみると、オシムさんはシステムとかポジションをあまり気にしていなかった。最初は3バックの一角でしたけど、ボランチやサイドバックもやったし、本当にいろんなところを任された。自分はすごく心地よかったし、「オシムさんみたいなすごい監督が期待してくれるんだから、どんな役割でもチャレンジしていくんだ」と燃えていた。まさに雑草魂でしたよ。

――各ポジションをどう整理しましたか?

 あの代表のセンターバックはエースキラーだった高校時代と重なりました。それに加えて「駆け引きしろ」とも言われましたね。「ボールを奪って味方を追い越していけば、必ず敵をかく乱できる」ともオシムさんは話していたけど、ボランチをやっている時から攻撃にどう絡むかはつねに考えていたので、「同じことをセンターバックでやっていいんだ」と目の前がパッと開けた感覚だった。本当にやりがいを感じました。

 サイドバックに関しては、2007年アジアカップのカタールとの初戦で左に入ったことをよく覚えています。プロでは初めての経験だったけど、うまく対応できれば自分の幅が広がると考えて積極的に取り組みました。

「守備のバランスを考えたうえで、チャンスの時には思い切って前へ出ていく」というのがオシムさんのサッカー。それを頭に入れてプレーした結果、高原さん(直泰/沖縄SV代表)の先制点をアシストできた。そこから何となく手ごたえをつかめた気がします。

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著者プロフィール

1967年長野県松本市生まれ。千葉大学法経学部卒業後、業界紙、夕刊紙記者を経て、94年からフリーに。Jリーグ、日本代表、育成年代、海外まで幅広くフォロー。特に日本代表は非公開練習でもせっせと通って選手のコメントを取り、アウェー戦も全て現地取材している。ワールドカップは94年アメリカ大会から5回連続で現地へ赴いた。著書に「U−22フィリップトルシエとプラチナエイジの419日」(小学館刊)、「蹴音」(主婦の友社)、「黄金世代―99年ワールドユース準優勝と日本サッカーの10年」(スキージャーナル)、「『いじらない』育て方 親とコーチが語る遠藤保仁」(日本放送出版協会)、「僕らがサッカーボーイズだった頃』(カンゼン刊)、「全国制覇12回より大切な清商サッカー部の教え」(ぱる出版)、「日本初の韓国代表フィジカルコーチ 池田誠剛の生きざま 日本人として韓国代表で戦う理由 」(カンゼン)など。「勝利の街に響け凱歌―松本山雅という奇跡のクラブ 」を15年4月に汐文社から上梓した

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