「1年目から100試合使う」鳥谷敬を獲得するために星野監督と“作戦会議” 元阪神スカウトが明かすドラフト秘話
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鳥谷に「1年目から100試合使う」言うとけ
優勝チームのセカンドには今岡がいてショートには藤本敦士がいて、2人とも優勝に大きく貢献してくれた、脂の乗った年齢の選手でもありました。それでもショートの鳥谷を獲りに行ったのは、それだけ鳥谷が抜きん出た選手、数年に1人の特別な選手だったからに他なりません。
鳥谷獲得に本格的に動き始めたのは前年9月にさかのぼります。藤川球児が神宮でプロ初勝利を挙げた日(9月11日)でしたからよく覚えています。試合後に編成部長の黒田正宏さんや東日本統括スカウトの菊地敏幸さんなどと一緒に、星野監督に赤坂プリンスホテルに呼ばれたのです。そこで行われたのが翌年に鳥谷を獲るための「作戦会議」。その席で星野監督からは「池、鳥谷には『1年目から100試合使う』言うとけ」と言われました。この言葉は一つの武器になりましたね。星野さんはこの年限りで監督を辞めてしまわれましたけど、後を継いだ岡田彰布監督が実際に鳥谷を105試合に起用しました。
もう一つの武器はスカウト顧問の岡田悦哉さんの存在でした。鳥谷の母校・聖望学園の監督さんと強い関係性を築いていましたから。岡田さんはアマチュア球界にもの凄い人脈をお持ちで、星野さんが阪神に来るときに中日から連れてこられた方。言うなればスカウト界の「重鎮」です。ですから私がまずごあいさつに行ったのは大学の方ではなくて高校の監督、岡本幹成さんでした。
そのせいではないとは思いますが、当時の早稲田大の野村徹監督に私と菊地さんが呼ばれて「陰でコソコソ動いているんじゃないですか? ちゃんと筋を通してください」と強く言われたことがありました。そんなときに上手く間に入ってくれたのが、鳥谷の1つ後輩でマネージャーをしていた松尾英孝です。以後は野村監督とのセッティングなど全部上手く仕切ってくれましたし、彼のお陰で野村監督とも何度も会って、信頼関係を築くことができました。優秀な男でしたので、卒業後は菊地さんが阪神に引っ張り、今は阪神電気鉄道スポーツ・エンタテインメント統括部の課長を務めているそうです。
鳥谷の獲得には巨人も動いていたようですが、鳥谷は阪神を選んでくれました。そのこと自体はもちろん嬉しかったのですが、はっきりと「お願いします」と本人から言われないまま『鳥谷!阪神決定!』とスポーツ新聞で報じられ、我々もそれを見て知りました。
菊地さんと一緒に鳥谷に会ったとき、「新聞では『阪神に決まり!』って出てるけど、お前は一言も『お願いします』とか『阪神に行きます』とか言うてないよな?」みたいなことを話すと、そこでようやく「お願いします!」という感じでしたね(笑)。
自由獲得枠のもう一枠は大学ナンバー1左腕の愛知学院大・筒井和也を獲得。ナンバー1の野手とナンバー1左腕を獲ることができたわけですが、欲を出してもう1人欲しかったのが近畿大学の糸井嘉男でした。糸井のことも高く評価をしていました。もちろん投手としてですが。担当スカウトが畑山俊二(現・統括スカウト)で近畿大学のOB。そんな関係から「3位でなんとかできんか?」と相談したことがあります。「さすがに3位のレベルじゃないでしょ」ということで、断られてしまいましたけど。
阪神としては自由枠を使ってまで獲る考えはありませんでしたが、日本ハムは自由獲得枠で行きましたね。入団してピッチャーとして芽が出ないとすぐに野手に転向させ、その後球界を代表する選手に育てました。そのあたりが日本ハムの山田正雄さん(現・日本ハムスカウト顧問)の経験や目利き、眼力の凄さだと思います。
ヤクルトの4巡目には青木宣親がいました。あのときの早稲田大は他にも比嘉寿光(広島3巡目)、由田慎太郎(オリックス8巡目)の4人がプロに入っています。ですが我々はもう鳥谷しか見えておらず、後にプロで日米通算2730本もヒットを打つ青木の獲得は全く考えていませんでした。それくらい鳥谷獲得に集中していたということですね。
私が阪神に来て考えていたことは、毎年ナンバー1の選手を獲るということ。チーム編成も考えないといけませんが、とりあえず毎年ナンバー1、2を獲りに行く。自由獲得枠ははっきり言ったらチームの人気とお金がモノを言う制度。阪神はその二つがあるチームです。その年のナンバー1、2を獲れる可能性も十分にありますから。そうやって良い選手を集めて、チームに厚みが出てきたら強くなりますよね。
大当たりになった能見の獲得
野間口は甲子園で活躍した当時から評価の高いピッチャーでしたが、高卒でのプロ入りを目指さずに創価大に進学していました。同大学の岸雅司監督も「しっかりと育て上げて、また4年後に送り出します」と言ってくれるなど、4年後にはドラフトの目玉になるピッチャーだと思っていました。
1年春のリーグ戦でも早速投げて、順調な大学野球のスタートを切ったかに思われました。それが一転、夏に練習を見に行ったら野間口の姿が見当たらない。大学野球が合わなかったのか早々に退部してしまっていたのです。
「このまま野球を辞めてしまうのは惜しい」と思ったのが編成部長の黒田さん。法政大時代の後輩であり、シダックスの監督を務める竹内昭文さんに野間口を紹介したのです。ちなみに野村さんがシダックスの監督になるのはこの年の秋からのことです。
シダックスのグラウンドは東京都調布市にあり、砂埃が舞うようなグラウンドでした。野村さんが監督時代に好きだった甲子園球場近くで売っているくるみパンや下鴨神社の焼き餅を手土産に、私も何度も通いました。
野村さんには「援護射撃」を期待したところもありましたが、野村さんは中立というスタンスでした。阪神に行けとも行くなとも言わない。「決めるのは野間口本人や」というスタンスでした。
野間口の獲得を争う巨人は、この年の開幕前に野村さんの息子、野村克則を阪神からトレードで獲得していました。そういった動きやベンチ裏などで巨人の担当スカウトと野間口が話をしている様子などを見ていると「やっぱり巨人かな」と思いましたね。スカウトの勘というやつです。案の定、5月の末にはスポーツ新聞各紙が『野間口巨人決定!』と報じられ、我々は野間口から撤退しました。
次に狙ったのが一場です。この年から監督を退いてシニアディレクターになっていた星野さんは明治大の大先輩。当然一場に対しても阪神の芽はあると思っていました。明治大の別府隆彦総監督にも「星野に一声掛けてもらったら、もうすぐに決まるんじゃないか?」と言われていました。それくらい明治大野球部にとって星野さんは無視のできない大きな存在。私も「一場は阪神に縁がある」と思っていました。でも一場はそうは思っていなかったみたいです(笑)。
一場は巨人が有力とされていましたが、巨人が栄養費名目で多額の現金を渡していたことが発覚。後に阪神、横浜も同様に発覚して大問題になりました。こうした問題により、一場は巨人でも阪神でもなく、この年初めてドラフトに参加していた楽天に入団することになりました。
野間口がダメで、一場もダメ。慌てて那須野にも動きましたが時すでに遅し。すでに横浜に決まっているような状況でした。ただこのとき、目玉の3人の獲得に奔走している裏側で大阪ガスの左腕・能見篤史の獲得にも動いていました。それが結果的に大当たりとなりました。
能見は高卒社会人7年目の25歳。この年がドラフトラストイヤーみたいなものです。スカウト会議でも当初はそんなに名前は挙がっていませんでした。「面白いのがいるな」と思ったのは全日本に選ばれた能見が紅白戦で投げているボールを見たとき。それでスカウト会議でも「能見というのがいますよ」と途中から進言していったのです。
本人も最後のチャンスという思いもあったのでしょう。段々と調子が上がっていって、球団内の評価もどんどん上がっていきました。
「もう絶対にお前が欲しい。自由枠で行かせてもらうよ」
能見にそう話したのはドラフトの1カ月くらい前のことでしたね。
先に狙った目玉の3人がプロで苦しんで、代わりに獲った能見は遅いプロ入りながら18年間現役を務めて104勝。ドラフトは本当に分からないものです。
ちなみに能見と同じ関西には松下電器に久保康友がいました。『松坂世代』の右腕で、関大一から高卒で入社してこの年が7年目。ロッテが自由獲得枠で獲得して1年目から10勝を挙げ、新人王になったピッチャーです。実は前年に指名寸前まで行っていたのです。
関西で生まれ育った選手で高校時代から良いピッチャーでしたので「獲ったら良いんじゃないか?」という話が出ていました。でももう一つ何か引っかかる所があったのか、直前になって指名を見送ってしまった。そうしたら久保がこの1年間でずいぶん良くなった。阪神は野間口、一場、那須野を中心に動いていましたから久保の獲得に動けませんでした。
「去年、指名しておくべきだったなぁ......」
そんなふうに後悔させられたピッチャーでしたね。