世代が野球を変える──黄金世代クロニクル

城島健司、里崎智也ら76年生まれ「捕手黄金世代」の肖像 知略の男たちは日本の野球をどう変えたのか?

赤星元信

2006年の日米野球でタイムリーを放つシアトルマリナーズの城島健司、捕手はロッテの里崎智也 【写真は共同】

 城島健司、里崎智也、相川亮二、橋本将、藤井彰人ら、1976年生まれには、好捕手がそろっている。言わば「捕手の黄金世代」だ。城島の「パワフルな打撃」、里崎の「配球術」、相川の「サポート力」など、個性が強すぎる捕手たちが競い合った。現在の球界に欠けている「捕手のスター性」について考察してみた。

名捕手あるところに覇権あり

2006年当時の伊東勤監督(西武)と古田敦也兼任監督(ヤクルト)。76年生まれ世代はこの2人を見て育った 【写真は共同】

 なぜ1976年生まれに名捕手がそろっているのか? 76年生まれであれば、プロ野球選手を夢見る中学1年生(89年)頃から、甲子園をめざす高校3年生(94年)頃まで、プロ野球界には手本となるべき好捕手が、自分が好きなチームにも存在した。

 当時、セ・リーグでは達川光男(広島)、中尾孝義(巨人)、木戸克彦(阪神)、古田敦也(ヤクルト)、中村武志(中日)、谷繁元信(横浜)らだ。

 捕手というと、マスクをかぶったり、当時は走者のブロックでケガが付きもの。敬遠される傾向にあった。それが中尾や古田など、「捕手像を変える男」が現れ、チームの“司令塔”と呼ばれるようになった。

 名捕手は、みずからのリードでチームを優勝に導く。上記6捕手は、いずれも「勝利の美酒」に酔っている。いつしか「好捕手あるところに覇権あり」というフレーズも生まれた。特に92年・93年日本シリーズにおける伊東勤(西武)と古田敦也(ヤクルト)の「捕手対決」は見ごたえがあった。そんな名捕手たちをテレビで見られたのも、「76年世代」に名捕手が誕生したのと無関係ではあるまい。

パワフルな打撃の城島健司

打てる捕手として日米で活躍した城島健司 【写真は共同】

 城島健司(ダイエー=現・ソフトバンク)のパワフルな打撃にはほれぼれした。もともと打撃のポテンシャルが高かった。大分・別府大付高(現・明豊高)から駒沢大への推薦入学だったが、王貞治監督の就任が内定していたこともあって、ダイエーの94年ドラフト1位指名を受諾した。ちなみに、この一件がきっかけで「プロ志望届」の提出が義務付けられた。

 王監督の野球は「打ち勝つ」野球である。03年の“ダイ・ハード打線”は球史に残るすさまじい強打線だった。1番(中)村松有人、2番(右)柴原洋、3番(二)井口資仁、4番(一)松中信彦、5番(捕)城島健司、6番(左)バルデス……。チーム打率は実に.297だ。

 城島はこの年、全140試合、182安打、打率.330、34本塁打、119打点。「地味な捕手の時代は終わった。子どもたちに夢を与えるスーパー捕手になりたい」。最近、ソフトバンクのチーフベースボールオフィサー(CBO)としてたびたび前面に出るが、華やかである。

 内角低目の投球をかちあげるパワフルな打撃が魅力。だが、1試合6安打を記録したこともあるように、コンタクト能力が高かった。シーズン70三振に届いたことがない。のちの2010年、阪神に移籍して168安打。パ・セの捕手シーズン最多安打の記録保持者だ。

 捕手のリードに関して、城島が遠征先のホテルで左右のエースである工藤公康、武田一浩の部屋を訪ねて貪欲に学んだ。工藤は述懐する。

「城島のリード通りの球種を投げた。打たれたら、ダグアウトでその理由をすぐに説明した。それにしても、『リードを打撃に生かす』捕手だった。それができない捕手もいるから」

 NPBからMLBに渡った初めての捕手。しかし、アメリカ野球は日本の「捕手のリードで打ち取る野球」ではない。球種サインを順番に出して、投手が投げたい球種を選ぶのだ。嫌気がさしたのかもしれない。09年を最後に、残る契約を破棄して、日本に復帰した。

 10年、阪神で全144試合出場。両リーグで計8度のゴールデングラブ賞、ベストナインはパで6度。日米通算18年、1785試合、1837安打、292本塁打。稀代の名捕手であった。

個性あふれる「配球術」の里崎智也

2010年の中日との日本シリーズ、渡辺俊介(左)とタッチを交わす里崎智也 【写真は共同】

 同い年の城島が入学すると思った駒大を避け、帝京大に入学したのが里崎智也である。里崎は自分が入るチームを選ぶ基準は「出場機会を得られるかどうか」。プロ入り時も古田がいるヤクルト、谷繁元信がいる横浜を避け、98年ドラフトでロッテを2位逆指名した。

 里崎は著書『捕手異論』『非常識のすすめ』『エリートの倒し方』でもわかるが、“異能の人”だ。引退後ユーチューバーとしても活躍できる、独特な考えが里崎をノシ上げた要因だ。

 楽天監督を務めた野村克也監督が言っていた。

「例えばな、フォークで1ストライク、フォークで2ストライク、高目ストレートでボール。4球目はフォークと思うだろう。ここでド真ん中にストレートをほうらせて見逃し三振に取るのが里崎だ。味のあるリードをする」。内角を攻めるのも巧かった。

 捕手1018試合出場で捕逸20個の少なさは特筆ものだ。「自分がサインを出すのだから捕るのは当たり前ですよ」。そう考えられなくて、反応が遅れる捕手が多いのだ。

「試合中は9割方守ることを考えていた」里崎だが、一方で「打つ捕手は年俸をもらえる」という考えを持つ。“全国デビュー”したのは05年のプレーオフ(現・クライマックスシリーズ)だ。ロッテファンの大声援に後押しされる「このチャンスに強いクリーンアップを打つ捕手・里崎って何者だ?」と多くの野球ファンが興味を抱いた。

 05年、ボビー・バレンタイン監督が率いる2位ロッテは、3位・西武、1位・ソフトバンクを倒し、セ・リーグの覇者・阪神を4勝0敗で退けて日本一。また10年、ペナントレース3位(貯金8)からの日本一は、里崎が「史上最高の下剋上」の言葉を残して注目を集めた。

 06年第1回WBCでは目標にしていた谷繁、さらに相川を抑え、捕手ベストナイン。決勝でキューバを破り、クローザーの大塚晶則(当時・レンジャーズ)と世界一の抱擁。 08年北京五輪も阿部慎之助(巨人)、矢野燿大(阪神)とともにメンバーに選ばれた。

 06年・07年と連続ベストナインとゴールデングラブ賞。6年連続2ケタ本塁打を含む通算108本。だが、現役通算16年1089試合890安打は、印象深い捕手だけに少なく感じた。

2005年、里崎と共にロッテの日本一に貢献した橋本将 【写真は共同】

 この里崎とロッテ時代に併用されたのが、橋本将であった。「76年世代捕手」は、城島だけが「単独捕手」だったが、それ以外は「捕手複数制」。現在巨人の小林誠司、甲斐拓也、大城卓三、岸田倫行、そしてDeNAの戸柱恭孝、山本祐大、松尾汐恩らの“はしり”だった。

 橋本は愛媛・宇和島東高2年時に平井正史とバッテリーを組み、3年春夏甲子園に出場。高校通算40本塁打の打棒を武器にして、94年ドラフト3位でロッテ入団。

 バレンタイン監督は、相手が右投手のときは左打ちの橋本を、相手が左投手のときは右打ちの里崎を捕手に使った。つまり、「ツー・プラトーン」だ。明るい里崎と対照的に地味で堅実。05年は里崎94試合90安打、橋本72試合52安打ながら48四球を選んで貢献した。

 城島が10年から阪神に移籍。09年オフにFA宣言した橋本は、相川亮二がFA移籍で抜けた横浜に入団。ここでも野口寿浩との併用。通算17年で727試合出場、429安打、44本塁打だった。

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