スカウトが振り返る、あの年のドラフト指名

杉内、和田、木佐貫…獲れなかった「松坂世代」のビッグネーム 元阪神スカウトが明かすドラフト秘話

永松欣也

池之上氏も目を付けていた杉内だったが、ダイエー(現ソフトバンク)の意向により逢瀬は叶わなかった 【写真は共同】

 毎年多くのドラマを生むプロ野球ドラフト会議。あの年の1位はどのようにして決まったのか? あの選手をどのように評価していたのか? あの選手はなぜ指名しなかったのか? 2001年から2014年まで阪神でスカウトを務めた池之上格氏に、選手指名秘話やドラフト舞台裏などを振り返ってもらった。

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初めての担当、安藤優也が見せた男気

安藤が阪神入団を決意した裏には、のちに結婚する“彼女”のフォローがあった 【写真は共同】

 ダイエーのスカウトを経て、私が阪神のスカウトになったのが2001年からです。ダイエーで10年間やってきた実績やノウハウ、人脈も含めて、南海時代にお世話になった野村克也監督にヘッドハンティングしていただいたのだと思っています。当時の阪神は3年連続最下位で暗黒時代の真っ只中でした。野村さんはドラフト、スカウティングということを非常に重要視されていましたから「ここを変えていかなきゃ強くならん」と考えられていたのだと思います。

 本当は前年から阪神のスカウトになる予定だったのですが1年遅くなってしまいました。私のスカウト就任を面白くないと思った人がいたのでしょうね。満を持して阪神のスカウトになったとき、怪文書も出たくらいですから。古い言葉で言えば「抵抗勢力」というやつですね。私が入団すると同時に何名かのスカウトが契約を更新されずに球団を去りました。スカウト部も変わろうとしていた時期だったのでしょう。

 でも阪神も決して悪いスカウティングをしていたわけではありません。アトランタ五輪にも出場した今岡誠(東洋大)を逆指名で獲得したり、後の20勝投手、大エースになる井川慶(水戸商)を2位で獲ったり、将来性を見越して藤川球児(高知商)も1位で獲っているんですからね。

 この年が野村さんの3年目。まだ自由獲得枠があった時代です。私は担当地区を受け持たず、スカウト活動の全体的なサポート、バックオフィス的な仕事をしていました。

 チームとしてはまず即戦力のピッチャーを獲ろうという方針がありました。春の段階から、ピッチャーなら日南学園の寺原隼人(ダイエー1位)とトヨタの安藤優也の評価が高かったですね。高校生の寺原も即戦力という評価でした。青学大の石川雅規(ヤクルト自由枠)もいましたけど、体のサイズがちょっと気になり、阪神ではそれほど高い評価ではなかったと思います。

 寺原はおそらく複数球団が競合する。でも安藤なら球団と法政大のパイプもあるし、中日で長年スカウトをされていた担当の高木時夫さんとトヨタとの関係性もある。安藤だと獲れるかもしれない。そういったことから安藤を自由獲得枠で獲りに行くことになったのです。

 私はダイエーにいたときから安藤を観ていました。法政大時代はコントロールは良いものの、もう少しボールに力強さが欲しいという、指名ボーダーライン上のピッチャーでした。安藤自身も、当初は社会人野球の道に進まず、卒業後は地元の大分銀行に就職が決まっていました。地元の超有力企業ではありますが硬式野球部はありません。私としてはもう少し頑張ってみて欲しいな、もったいないなという思いが少なからずありました。

 安藤の運命が変わったのはその年の秋です。きっかけは安藤の彼女でした。安藤と彼女と新宿の焼肉屋で食事をしていたときのこと。安藤がトイレ行ったときに彼女が私にこう教えてくれたのです。

「池之上さん、彼は本当はプロ野球に行きたいと思っているんです。プロでやりたいと言っていました」

 安藤もやっぱりプロに行きたいんだな……。私は戻ってきた安藤にこう言いました。

「あと5キロ速くなったらプロにいける」

 その言葉で安藤の心にスイッチが入ったのでしょうね。社会人で野球を続け、プロを目指す決心をしたのです。もう秋ですからどの企業も内定者は決まっている時季でしたが、私は安藤の思いを法政大の山中正竹監督に話しに行きました。そこからアトランタオリンピックの監督で当時のトヨタ監督、川島勝司さんに話が行き、「山中君が言う選手やったらうちも獲るよ。大丈夫やろ」という感じで獲ってもらえたのです。川島さんの男気ですよね。無理くりねじ込んで安藤を獲ってくれたのですから。ちなみに山中さんも川島さんも私がダイエー時代に親しくさせて頂いていたという関係性もありました。早速阪神でもその人脈を生かすことが出来たわけです。

 ちなみにこのときの彼女というのが今の安藤の奥様です。美しい話でしょ?(笑)

 安藤はトヨタに進んで大きく成長し、逆指名でなければ獲れないピッチャーになりました。そしたら黙っていないのがダイエーです。詳しい条件は分からないですが、阪神よりも良い条件で安藤を口説いたはずです。2年前までダイエーにいましたから分かりますよ、そりゃあ(笑)。

 当時のダイエーは99、00年にリーグ連覇していた王貞治監督率いる常勝球団ですし、安藤の地元九州のチームでもあります。片や阪神はこの年も含めて4年連続最下位の暗黒期の球団。安藤も悩んだと思いますが、最終的に阪神を選んでくれました。あのときは本当に嬉しかったですね。

 後になってこんなことを教えてくれたのは安藤のお父さんです。

「ドラフトのとき、息子は『池之上さんを裏切ることはできない』って言っていたんですよ」

 阪神のスカウトになって1年目ということもありましたし、初めて担当した選手が安藤です。ですから彼に対する思い入れは強いものがあります。

“厚い壁”に阻まれた杉内へのアタック

 この年、ダイエーは3位で三菱重工長崎の杉内俊哉を獲得しています。ドラフトの目玉クラスの左腕ですから、本来であれば逆指名を使わないと獲れない投手。それを3位で獲ったというだけで、杉内とダイエーの関係性の強さが窺い知れると思います。他球団が杉内とダイエーの間に割って入ることはできませんでした。

 実をいうと、ダイエーで杉内を担当していたのが私でした。でも「3年後に獲るから三菱重工長崎へいけ」と手引きしたかというと少し違います。

 杉内は皆さんご存知の通り、夏の甲子園で八戸工大を相手にノーヒットノーランを達成するなど、「松坂世代」を代表するプロ注目投手の1人でした。甲子園終了後にはAAAアジア野球選手権大会のメンバーに松坂大輔(横浜高/西武など)や新垣渚(沖縄水産/ソフトバンクなど)等と一緒に選ばれました。

 大会を通じて杉内がどんな経験をして、どんな感じで帰ってくるかを私も鹿児島実業の久保克之監督とともに楽しみにしていました。でも杉内は帰ってくると浮かない様子でこんなことを言ったんです。

「日本代表はとんでもない世界でした。松坂の投球を見て、今の僕がプロ野球選手になるなんてとんでもないと思いました。僕は社会人に行きます」

 プロ野球でやりたい気持ちを強くするのではと思っていた私ですが、杉内は自分の考えで社会人を選んだのです。

 鹿児島実業と三菱重工長崎の関係性の中で就職が既定路線。落ち着くところに無事に落ち着いた感がありました。重工長崎の監督は当時小島啓民さん。バルセロナオリンピック戦士でもあり、私も当時から懇意にしてました。ダイエーはこのときから3年先を据えて取り組んでいましたから、そりゃあもう他球団は歯が立たないですよね。

 杉内はダイエーで堅い。それでも阪神入りの脈が少しでもないのかを確認するために、私は杉内にもう一回アタックをしてみようと思いました。重工長崎の監督さんに「今年から 阪神のスカウトになりました。改めてご挨拶にお伺いしたいんです」と連絡をいれ、高校の監督さんにも「もう一回ちょっと動いていいですか?」と連絡も入れて筋も通しました。重工長崎の監督さんにも「どうぞどうぞ」と初めは言われていたのです。ですが、私がいざ博多から長崎に向かっている途中で電話があり「すいません。やっぱり杉内には会ってほしくはないです……」と断られてしまいました。

 ダイエーが私の動きを察知したんですね。狙っている選手と他球団の人間を会わさないのが一番良いわけですから「まぁ、そりゃそうだわな」です。逆を言えば「ダイエーのスカウトはしっかり仕事をしている。さすがだな」と感心させられました。

 この年の指名選手を振り返ってみると、西武2巡目の中村剛也(大阪桐蔭)と4巡目の栗山巧(育英)がプロで傑出した成績を残していますね。中村は2001年の選抜終わりに関西創価との練習試合を観に行ったのですが、その試合でホームラン3連発。凄いバッターだと思いましたよ。

「阪神は地元の中村と栗山を指名候補にすら入れていなかった」という噂もあったようですが、リストに名前がなかったことはないと思います。ではなぜ指名しなかったというと、この年はまず即戦力ピッチャーとキャッチャーを自由獲得枠で獲ろうという方針がありました。このときのドラフト制度は自由獲得枠を2つ使えば次の指名順は4巡目です。西武は自由枠を一つしか使わなかったから中村を2巡目で指名できましたし、栗山も4巡目で阪神より先に指名しているのです。結果論ではありますが初めから2人とも獲れなかったのです。

 西武の担当スカウトは鈴木照雄さん。あの根本陸夫さんが「鈴木は仕事ができる」と認めた敏腕スカウトです。この順位で2人を指名した鈴木さんの眼力が素直に凄かったと脱帽する他ありません。ちなみに松井稼頭央(93年3位)も中島宏之(00年5位)も鈴木さんの担当。その眼力で埋もれた才能を見抜いて確実に獲れる順位で獲る。この時期の関西の良い高校生は、みんな鈴木さんに獲られていたような印象があります。

 チームは4年連続の最下位に終わり、私を阪神に引っ張ってくれた野村さんもこの年限りで球団を去りました。野村さんは結果を残すことは出来ませんでしたが、球団に対して、選手に対して、勝つためには何をしたらいいのか、どういうことをしたらいいのか、3年間コンコンと説き続けました。そこで覚醒していったのが桧山進次郎であり、矢野燿大でした。今岡も使ってもらえない時期がありましたけど、この3年があったからこそ星野監督時代に大活躍ができた。井川も星野さん時代に大エースになるための準備期間がこの3年間でした。私はそう思っています。

 野村監督時代の3年間、星野監督時代の2年間は、阪神タイガースが『暗黒時代』という格納庫から出てきてようやく滑走路に姿を見せた、そんな5年間だったと思います。

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著者プロフィール

1976年、大分県速見郡生まれ。多くのスポーツサイトの企画・編集、ディレクターなどを経てフリーランスに。現在は少年野球、高校野球サイトのディレクターを務めながら書籍の企画・編集も行っている。主な書籍は『星野と落合のドラフト戦略』『ジャイアンツ元スカウト部長のドラフト回想録』『回想 ドラゴンズでの14年間のすべてを知る男』など。

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