近鉄バファローズ豪快伝説 球団消滅から20年、今明かされる、真実

近鉄最後の監督、梨田昌孝はなぜオリックス入りを断ったのか? それでも案じ、支えた“教え子”たちの行く末

株式会社KADOKAWA

【写真は共同】

 プロ野球の球界再編で近鉄バファローズが消滅してから丸20年が経過した。

 にもかかわらず、野球のオールドファンは“近鉄愛”を持ち続け、メディアではたびたび「近鉄」がテーマになっている。

 故・西本幸雄監督が作り上げた軍隊式の厳しい練習もさることながら、いわく二日酔いで打ち続けた、いわく優勝旅行は貧乏旅行、いわく登板直前まで漫画を読んでいた――と、昭和らしい伝説は枚挙に暇がない。

 節目の年に「近鉄バファローズの伝説」を一挙にまとめ、栄光の裏で起きていた豪快かつ愉快な一面をフィーチャー。近鉄の野球史を次世代に残す意義のある一冊である。

 『近鉄バファローズ豪快伝説 球団消滅から20年、今明かされる、真実』から一部抜粋して公開します。

「すみません、できません」

 11月8日、オリックスと近鉄の合計107選手を新オリックスと楽天に振り分ける「選手分配ドラフト」が行われた。元近鉄の選手が合流する新オリックスを束ねられる監督として、両球団をリーグ優勝に導いた仰木に白羽の矢が立った。

「10月の初め、仰木さんから『ヘッドコーチで来い』と誘われました。そのときはイチローが252安打をマークして、ジョージ・シスラーのメジャーのシーズン安打記録を塗り替えていたので、仰木さんはアメリカから私に国際電話をかけてきました。

『俺は1年で辞めるから、そのあとはお前がやったらいいよ』。ありがたい話なのですが、近鉄の選手たちのことを考えました。選手の行き先が決まるのはまだ先で。11月8日の分配ドラフトがありましたし、そこから漏れた選手も含め、行き先が決まるのはもっとあとになります。この電話では、国際電話で話すのもあれだから、日本に帰ってお話ししましょう、となりました。私は最終的に、『選手たちはまだ行き先が決まっていないのに、私が一番先にヘッドコーチの話を受けるわけにはいかない。すみません、できません』と仰木さんに伝えました」

 もし新オリックスの首脳陣に梨田がいたら、近鉄出身選手、近鉄ファンの心持ちを和らげることはできただろう。しかし。不安定な立場にある選手たちがいるなかで、先に自分の身を安定させることは梨田にはできなかった。

「新オリックスに残った選手たちにとっては安心する要素ではあったと思うけれど、いずれにしても絶対に反発する人もいたでしょう。残れなかった選手もいるなかで、近鉄バファローズのトップの人間が天下りみたいな感じで就任するのは、私自身のなかでも納得できない部分がありました。

 あのときに踏みとどまったことで、これまでプロ球団の本拠地を置くことはもう無理だろうと言われていた北海道、東北地方の日本ハム、楽天で2球団とも監督をやれたのだと思います。できると思っていませんでしたから」

 以降は解説者に転じたが、“教え子”たちの行く末はいつになっても気になった。なかでも1992〜2004年、「いてまえ打線」を支えた中村紀洋が心配だった。近鉄の球団消滅後、中村はMLB挑戦でドジャースへ。しかし、17試合出場、41打数5安打の打率1割2分8厘、0本塁打に終わり、2006年に日本球界に復帰してオリックス入りしたが、オフの契約更改が難航して自由契約となっていた。

「ノリ(中村紀洋)は、やはり守備はうまかった。ハンドリングは柔らかいし、打撃はご承知の通り。彼がオリックスを退団したあと、私は中日の落合(博満)に連絡しました。落合のところであれば絶対に成功すると思ったからです。ノリが成功するには厳しくする監督じゃないといけないので、落合に獲得してほしいと言ったら、最初は断られました。

 その後、仕事でキャンプ巡りしているときに落合から電話がかかってきて、『ノリはまだやる気あるかな?』と聞くので、『あると思うよ』と答えると『テストでもいいか?』。それを受けてノリに連絡したら、『やります』となりました」

 2007年、キャンプ終盤の2月にようやく中日入団が決定。支配下登録された中村は、通算1000打点に到達し、3番、4番も務めた。規定打席に到達し、打率・本塁打・打点ともにチーム上位の成績を挙げると、日本シリーズでは無類の勝負強さを発揮し、打率4割4分4厘で日本シリーズMVP。豪快なカムバック劇で中村は生き返り、中日も53年ぶり2度目の日本一に輝いた。

 一方で、中日では三塁を務めていた森野将彦が外野手に転向した。森野は翌2008年春に左手甲骨折、左ふくらはぎ肉離れとケガ続き。輝く者があれば、その裏返しもあるのだ。

「ノリは最初、育成選手のように背番号は205番を付けて、頭を丸刈りにしてきましたよね。シーズンでは成功はした。成功はしたけれど、2008年オフに年俸が上がらないからと、私が知らぬ間に契約更改でもめていたんですよね。落合からの電話で知って、私は驚いてすぐノリに連絡しました。プロ野球選手の評価は金額がすべて。それはそうなのですが、『ちょっと早まったのではないか』と言いました。落合のところなら、成績を残せると思ったんだけどね。辞める前に、先に私のところに連絡があれば、またちょっと違ってくるのですが、ああいう辞め方をすると、なかなかプロのユニホームを着られなくなってくる。もったいないですよ」

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