近鉄最後の選手会長、礒部公一の苦悩と誇り “あれから20年”数秒間の沈黙の後に紡いだ言葉
にもかかわらず、野球のオールドファンは“近鉄愛”を持ち続け、メディアではたびたび「近鉄」がテーマになっている。
故・西本幸雄監督が作り上げた軍隊式の厳しい練習もさることながら、いわく二日酔いで打ち続けた、いわく優勝旅行は貧乏旅行、いわく登板直前まで漫画を読んでいた――と、昭和らしい伝説は枚挙に暇がない。
節目の年に「近鉄バファローズの伝説」を一挙にまとめ、栄光の裏で起きていた豪快かつ愉快な一面をフィーチャー。近鉄の野球史を次世代に残す意義のある一冊である。
『近鉄バファローズ豪快伝説 球団消滅から20年、今明かされる、真実』から一部抜粋して公開します。
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「身売りは起こり得ることだとは思ったけれど、合併ってなんやねん」
「2004年はチームとして優勝しなきゃいけない、自分がレギュラーとしての地位を確立しなきゃいけないという思いで臨んだシーズンでした。まさか、あんなことが起きるなんて想像すらできない。あの年は春季キャンプに入る前に、近鉄が球団名のネーミングライツ(命名権)構想を発表したんですよね。当時30歳になる年で、プロ野球の世界に身を置いているとなんとなく球団の状況がわかる。経営的にしんどいのかなと。キャンプ初日に球団側から話があって、『ネーミングライライツの話は、近鉄が決めても12球団の承認が得られないと認められない。心配しなくていい』と説明がありました。結局その話が立ち消えて、僕らはシーズンに向けて集中していました」
近鉄は2001年にリーグ優勝を飾り、2002年は2位、2003年は3位と3年連続Aクラス入りしていた。ローズが2003年オフに退団して巨人へ移籍したことで、3年ぶりの優勝に向け、主軸を担う礒部に掛かる期待は大きかった。だが、シーズンを戦っていた6月13日に日本経済新聞が「近鉄・オリックス球団合併交渉」をスクープ。両球団はこの一報を受け、合併構想の事実を認めた。
「球団が合併、という言葉にはピンとこなかったですね。僕らが入団する前から、球団の身売りはあったじゃないですか。赤字で手を挙げる球団があれば、買ってくれる球団がある。身売りは起こり得ることだとは思ったけれど、合併ってなんやねんって……。選手たちが集められて、当時の球団社長だった小林哲也さんに『経営がうまくいっていない』と説明を受けました。でも、この時点では『大事になるような話じゃない』という思いが選手のなかにまだあったと思います。ピンとこないんですよ、球団がなくなるという事態が。
徐々に日が進んで、『もしかしたら合併が起きるんじゃないか』と不安になりました。オリックスと合併して一つの球団になるということは、近鉄のなかでクビになる選手が出てくるし、仕事がなくなる裏方さんが出てくる。近鉄は野球をやりやすい環境、球団だと思っていたので、まだまだ選手や裏方さんたちと一緒にやりたかった。あのときは近鉄という球団を絶対になくしてはいけないという思いだけでしたね」
選手会長だった礒部は労使交渉、選手会の打ち合わせなどに時間を費やした。
「選手会でいろいろ動いたり、交渉後に球場へ向かって練習をしないまま試合に出たり、交渉が夜遅くまで長時間になり、試合に出られないときもありました。でも、そのときは野球より大事なことだと考えるようにして。とくに8、9月は不安がすごく大きかったですね。試合に出ているときも、外野手は内野手より俯ふ瞰か んして野球を見るので、守っているときに『これからどうなるんだろう……』という思いがふと頭をよぎったりして。NPB側と選手会側の団体交渉が決裂して、9月18、19日に日本プロ野球界初のストライキが決行されたときは、ファンの声が支えになりました。オリックスと合併賛成の人は皆無で、どの球場に行っても『俺たちは付いていくよ』と激励の声を掛けてもらって。プロ野球はファンの方々に支えられているとあらためて実感しました」
その後に近鉄とオリックスの球団合併が決まったが、楽天がプロ野球界に新規参入することが決定。12球団で2リーグ制が維持され、現在に至る。
「選手会長だった僕ができることなんて、微々たるものなんです。近鉄の仲間たちや裏方さん、他球団の選手たちと励まし合いながら前に進むしかなかった。監督だった梨田さんは捕手から外野にコンバートしてレギュラーで起用してくれた恩師ですが、この球界再編問題でも、僕らと同じ気持ちで戦ってくれる同志でした。選手と監督の関係性を超えて人間的にも尊敬できる方で、本当にお世話になりました。選手会会長だった古田敦也さんにも感謝の思いしかありません。古田さんでなければ、ああいうかたちで決着していなかったと思います。自分の球団のことではないのに、12球団全体を考えて動いてくれて。古田さんは選手会の会長、僕は近鉄の選手会長という立場ですべての情報を共有していました。『何かあったら連絡してくれ』と言われていましたし、些細なこともすべて報告して。毎日のように連絡を取り合って、試合直前に電話したときもありました。不安な日々のなかで個人的にも支えられましたし、頼りっぱなしでした。プロ野球界は古田さんに救ってもらったと言っても、けっして大げさではないと思います」
驚くべきことに、礒部はこの年に120試合出場で打率3割9厘、26本塁打、75打点の好成績を残している。近鉄がオリックスと合併して球団が消滅するという想定外の出来事に見舞われ、野球に集中しづらかった環境だったことを考えると、驚異的な成績と言える。
「あの年は特別なシーズンでした。経営の難しい話を理解しないといけないので、専門用語を理解するために勉強したり、選手会や労使交渉の会議の前日は『これを話さないといけない』と準備をしたりしないといけなかった。眠れない日もありましたよ。野球が続けられるか不安でしたから。メディアに追いかけられて自宅まで来られると近所に迷惑をかけるので、球場から家に帰らずホテル住まいの時期もありました。正直めちゃくちゃしんどかったですけれど、絶対に成績を落としたくない思いはありました。意地という言葉がしっくりくるかもしれません。グラウンドに立つと、『自分は野球選手なんだ』と思い返すことができた。外野を守っていて気持ちがどこかに飛んでいた瞬間はありましたが、打席に立ってスイングするときはボールに集中している。あの年は不思議なゾーンに入っていましたね。技術的に脂が乗っている時期で打つコツを覚えて、いい状態ではありましたが、シーズンの途中から打率3割、30本塁打、100打点に届くかもしれないと気づいて。まあ、自分の成績どころではなかったですけどね」
近鉄は2004年限りで球団の歴史に幕を下ろしたが、選手たちの野球人生は続く。オリックスと楽天の選手分配ドラフトで、近鉄の選手会長だった礒部は労使交渉の当事者だったという立場もあり、オリックスのプロテクトを拒否して楽天への移籍を希望した。
「オリックスの監督に仰木彬さんが就任し、大阪市内のホテルでお会いしました。仰木さんには『オリックスで一緒にやらないか』と誘っていただいたけれど、『僕は楽天に行くという気持ちが固まってここに来ています。こんな社会現象になる出来事が起きて、オリックスでプレーするとなったら世間はどう思うでしょうか。仰木さんのことは大好きですし、一緒にプレーしたいですけれど、楽天でプレーしなければいけない義務があります』と答えました。仰木さんは近鉄OBで監督もされた経験があるので、難しい立場だったと思います。『お前の気持ちを聞けて良かった。頑張ってな』と励ましていただき、ビールを1杯お酌していただいて帰りました」