近鉄バファローズ豪快伝説 球団消滅から20年、今明かされる、真実

ピッカリ投法の佐野慈紀が経験した“ブランデーの日本酒割り” 近鉄の選手たちが「よく食べる」理由

株式会社KADOKAWA

【写真は共同】

 プロ野球の球界再編で近鉄バファローズが消滅してから丸20年が経過した。

 にもかかわらず、野球のオールドファンは“近鉄愛”を持ち続け、メディアではたびたび「近鉄」がテーマになっている。

 故・西本幸雄監督が作り上げた軍隊式の厳しい練習もさることながら、いわく二日酔いで打ち続けた、いわく優勝旅行は貧乏旅行、いわく登板直前まで漫画を読んでいた――と、昭和らしい伝説は枚挙に暇がない。

 節目の年に「近鉄バファローズの伝説」を一挙にまとめ、栄光の裏で起きていた豪快かつ愉快な一面をフィーチャー。近鉄の野球史を次世代に残す意義のある一冊である。

 『近鉄バファローズ豪快伝説 球団消滅から20年、今明かされる、真実』から一部抜粋して公開します。

ブランデーを日本酒で割った「日本酒割り」

 近鉄を代表するリリーフ右腕・佐野慈紀(重樹)は1990年代、フジテレビ系列の人気長寿番組「プロ野球珍プレー・好プレー大賞」で「名人」と称された。リーグ最多57試合に登板した1996年オフに中継ぎ投手として日本初の1億円プレーヤーとなった右腕は、自虐の薄毛ネタでジョークを繰り出しては替え歌まで披露し、当意即妙の切り替えしはもはや芸人レベル。1995年8月26日のオリックス戦で偶然生まれた「ピッカリ投法」は、今もトレードマークとなっている。実力と笑いを兼ね備えた佐野は、エネルギッシュな近鉄ナインを象徴する一人だった。

 1988年に就任した仰木彬監督のもと、近鉄の若者たちは伸び伸びとプレーしていた。1968〜1970年に指揮を執った三原脩監督もグラウンド外の選手たちに自由を与え、豪放磊落(ごうほうらいらく)な風土が醸成されたが、「仰木近鉄」にはそこに“父性”が加わった。1991年ドラフト3位で入団した佐野は、仰木監督を懐かしく思い出す。

「仰木さんは温かく人間味のある監督。プロ野球の監督は選手にとって遠い存在なのかなと思っていましたが、ありがたいことに僕はプロ1年目から試合に出してもらいましたし、監督が辞められても疎遠になることなく、ずっと温かく見守ってくれる。心から気持ちを預けられる人でした」

 球団にはそれぞれチームカラーがある。“父・仰木”に見守られた近鉄は自由闊達(じゆうかったつ)、そして「ハチャメチャ」でもあった。

「春季キャンプでは投手が集まる食事会『投手会』があって、新人が参加すると歓迎会のようなかたちになるわけですが、そこで“洗礼”を受けました。最初はビールから始まり、僕が飲めるクチだと分かった瞬間に、酒豪の先輩が『俺と勝負や』と言い出してドリンクを渡されました。水割りではなく、ブランデーを日本酒で割った『日本酒割り』。その訳の分からないお酒をとことん飲まされ、さすがに酔っぱらってトイレの便器を抱えて吐いたことは覚えています。(1990〜1995、1997〜1998年近鉄在籍の右腕)入来智さんも飲まされて酔っ払って、なぜか僕は入来さんに服を脱がされて裸にされました。全部は覚えていませんが、僕が穿(は)いていたパンツをビリビリに破られたことだけは記憶にあります。

 僕はタクシーに乗って宿舎へ帰ったようですが、1年目の選手が泊まる大部屋で何度もヘッドスライディングしていたそうです。この最初の投手会のおかげで、先輩たちに『こいつは飲める』と認知され、夜な夜な誘ってもらえるようになりました(笑)」

 仰木監督就任1年目の1988年は、前年の最下位から2位に躍進。とはいえ、10月19日のロッテとのダブルヘッダーに勝てば優勝という大一番、伝説の「10・19」で2試合目に引き分けてあと一歩のところで優勝に届かなかった。翌1989年は最大8・5ゲーム差を引っくり返して9年ぶり3度目のリーグ優勝。しかし、日本シリーズでは巨人相手に3連勝した後に4連敗を喫した。ドラマチックな近鉄では、漫画さながらの光景も繰り広げられていた。

 1989年に入団した右腕・赤堀元之は抑えが専門だったが、分業制が確立されている現代の野球ではあり得ないタイトルを手にしていた。1992年にリーグ最多の50試合に登板し、22セーブで最優秀救援投手。加えて規定投球回にも到達していたため、1・80という驚異的な数字で最優秀防御率にも輝いた。

「ポリ(赤堀)は登板間際まで、よく短波ラジオで競馬中継を聞いていました。パ・リーグは土日のほとんどがデーゲームだったので、彼が登板する時間帯にちょうど競馬のメインレースが始まる。ですから、登板のない控え投手がブルペンで代わりにレース中継を聞いて、ポリが買った馬券が当たったら、ブルペンから両腕でマルをつくったりして合図を送っていました。あいつが1球投げるごとにブルペンの方を見ていたのは、それを確認していたから(笑)。で、馬券が当たっているときは、いきなり150キロとかを投げるんです。

 一番驚いたのは、僕が2年目の1992年のことでした。当時クローザーは1イニング限定ではなかったので、平気で2〜3イニングを投げたものです。ポリはあと9イニング投げれば、規定投球回に到達するところまで来ました。しかも、その残り9イニングを0点に抑えたら、防御率のタイトルもいけるかもしれない。仰木さんが『先発するか?』と半分本気、半分冗談で聞いたら、『いいですよ』と即決したんです。それで先発したら簡単に完封。あのときは『こいつ、すごいな』と思いましたね。人生で初めて『野球はこんなに簡単やったんか』とびっくりしました。

 赤堀はラジオ、(1985〜1997年近鉄在籍の右腕)山崎慎太郎さんは漫画。基本は先発ですが、一時期リリーフに回っていたときに、待機しているロッカールームでずっと漫画週刊誌を読んでいました。広島で厳しい規律を経験してこられた左腕・清川栄治さんが1991年に近鉄へトレード移籍で加入したとき、『なんや、このチームは』と引っくり返っていました」

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