立花龍司コーチが振り返る野茂英雄と吉井理人 メジャー流トレーニングを先導した仰木監督は「モテたい」だけ?
にもかかわらず、野球のオールドファンは“近鉄愛”を持ち続け、メディアではたびたび「近鉄」がテーマになっている。
故・西本幸雄監督が作り上げた軍隊式の厳しい練習もさることながら、いわく二日酔いで打ち続けた、いわく優勝旅行は貧乏旅行、いわく登板直前まで漫画を読んでいた――と、昭和らしい伝説は枚挙に暇がない。
節目の年に「近鉄バファローズの伝説」を一挙にまとめ、栄光の裏で起きていた豪快かつ愉快な一面をフィーチャー。近鉄の野球史を次世代に残す意義のある一冊である。
『近鉄バファローズ豪快伝説 球団消滅から20年、今明かされる、真実』から一部抜粋して公開します。
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「日本で最もメジャーリーグに目が向いている球団だった」
「最初はそこまで積極的ではなく、トレーニングは最低限、チームのメニューはこなすという感じでした。仰木さんからは『投手コーチから野茂のフォームを変えた方がいいという意見が上がっているが、あいつはあれでドラ1を勝ち取ったのだから、ワシはあのまま投げさせてやりたい。ただ、プロはアマチュアと違ってシーズンが長いから、野茂の体に負担がかかる可能性が高い。だからお前、贔屓(ひいき)の引き倒しをせい』と言われていました。野茂を重点的にみてやれ、ということ。でも、本人にその気がなければ仕方はないのかなと思っていましたが、野茂がオープン戦のシート打撃で打ち込まれました。
野茂から言ってきてくれました。『体に力をつけないと無理だと思いました。小野さんみたいに本格的にウエートをやりたいです』と。『来た!』と思いました。その時期から始めると、トレーニングの効果が出るのは5月ぐらいとみていたら、4月29日オリックス戦で当時日本タイ記録の1試合17奪三振。完投でプロ初勝利を挙げました。
そこから野茂がウエートと遠投にハマりだしました。メジャー流の調整法、いわゆる『ノーラン・ライアン式』です。小野と2人でやるようになり、結果そのシーズンのタイトル争いをしていた。ウエートトレーニングはボディビルのトレーニングとは違うものだと理解してくれるようになり、少しずつウエートに対するアレルギーのようなものがなくなっていきました。
吉井理人は右肘の内側のじん帯を痛めていましたが、当時は考え方が昭和だったので、『親にもらった体にメスを入れるなら、野球をやめる』と言い出した。『それならガンガン鍛えるしかないで。鍛えて鍛えまくるしかないで』と言うと、『やる』と言ってくれました。もともとメジャー志向でしたから、ウエートはすんなり受け入れてくれて、肘もだいぶ良くなりました。
ただ、肘に痛みがある場合はスライダーが一番怖い。1年間は辛抱しながらやらないといけないところです。吉井はスライダーと真っすぐの球速がなかなかMAXに戻らず、直球は140キロちょっとで、スライダーやフォークもキレがなくて打ち込まれる。『言うことを聞いているのに効果ないやないか!』とケンカになったこともありました。『信じてくれ! もう少し辛抱して続けよう』と励まして、1年経ったら元に戻りました」
吉井はその後、「立花さんの言う通りでした」と言ってくれたのだろうか。
「あいつが言う訳ない(笑)。トレーニングはずっと一生懸命に続けてくれましたよ。いまだにあいつは俺のことを『インチキコーチ』と呼んでいます(笑)」
吉井が相手を「インチキ」と呼ぶ場合は、親しみを込めた褒め言葉でもある。味方は徐々に増えるなかに、小学生時代からの知り合いも交じっていた。1歳下の捕手・光山英和だ。
「ボーイズリーグのライバルチームの投手同士だったんです。同じ市部だったので全国大会の予選でも対戦して、よく投げ合っていました。光山も近鉄でガンガントレーニングしてくれました」
1980年代後半から、日本でもメジャーリーグの中継やハイライト番組が放送されるようになった。近鉄の選手たちは番組をビデオ録画し、食い入るように見つめていた。
「必ず録画して、みんなで見ていました。そのせいか、毎週放送の翌日になると、光山の打撃フォームが変わっている。『あいつ、きのうまたメジャーリーグ特集見たな』と(笑)『先週はカンセコ、きょうはマグワイアちゃうか?』という具合。当時、光山が飼っていた犬の名前がポンだったので、『ポンセコ』と呼ばれていました(笑)。
あの当時、日本で最もメジャーリーグに目が向いている球団だったことは間違いないと思います。他球団はまだどこもウエートをしないのに、うちだけみんながやるようになっていき、すぐサイズアップするので、スポーツ用品メーカー泣かせのチームと呼ばれました。
メジャーリーグでは、アスレチックスが強い時代。打線は史上最高の1番打者リッキー・ヘンダーソン、3番ホセ・カンセコ、4番マーク・マグワイア。投手にはデニス・エカーズリーがいて……すごい面々がそろっていました。すっかり影響されて、近鉄のチームカラーは赤と紺なのに、吉田剛はアスレチックスのカラー、緑色のリストバンドをしていました。
近鉄にはメジャーの野球に近い豪快さ、『9番でも本塁打を打てよ』という考えはありました。ノリ(中村紀洋)がプロ1年目の川崎球場でライト前へきれいなヒットを打ったんです。チェンジになってベンチに帰ってきたときに、仰木さんから『誰がそんなしょうもないヒット打てと言うた! 引っくり返るくらい打たんかボケ!』と怒られていました。ノリが1軍に上がって捻挫していることがあって、2人でテーピングの話をしていたら、後ろから仰木さんが『そんなん、お前、本塁打を打ったらええやん』と一言。そうしたら、ノリは本当に本塁打を打って、足を引きずりながらダイヤモンドを回っていたこともありました。赤堀元之もセーブ王を達成したあと、あと9イニング完封したら規定投球回に到達して防御率のタイトルも獲れるというシーズンがありました。実際に獲得したのですが、そのときも、仰木さんが『行け行け! 防御率のタイトルも獲ってしまえ!』と。ほんまに、漫画みたいなチームだなと思いました」
立花が大切にしている、近鉄時代の写真。そのなかにいる当時の野茂、吉井、小野、阿波野秀幸、佐野慈紀(重樹)ら若手投手陣の笑顔は、喜びに満ちあふれている。それは、仰木監督が引き出したものでもあった。
「仰木さんは自らトレーニングをやり出してくれたんです。そうすると、選手がウエートトレーニングのスケジュールをちゃんとやるようになる。仰木さんは『俺は飲み屋でモテたいだけや』なんて、これまた格好いいことを言うわけです。
1989年は主力選手のケガが治って戦力がそろい、シーズン終盤の残り5試合が大勝負になるというときでした。試合前の円陣で仰木さんが『これからし烈な戦いになる。しんどい時期になるけれど、ケガもいとわないプレーをしてくれ。ケガをしてもリハビリができるやつがちゃんといるから……名前は忘れたけど』と言ったそうです。そのときは1軍に同行していなかったので、あとから人づてに聞きました。絶対に頑張らなあかんと思いました」