阿波野秀幸が振り返る伝説の「10・19」 野茂英雄のMLB移籍は巡り合わせの賜物
にもかかわらず、野球のオールドファンは“近鉄愛”を持ち続け、メディアではたびたび「近鉄」がテーマになっている。
故・西本幸雄監督が作り上げた軍隊式の厳しい練習もさることながら、いわく二日酔いで打ち続けた、いわく優勝旅行は貧乏旅行、いわく登板直前まで漫画を読んでいた――と、昭和らしい伝説は枚挙に暇がない。
節目の年に「近鉄バファローズの伝説」を一挙にまとめ、栄光の裏で起きていた豪快かつ愉快な一面をフィーチャー。近鉄の野球史を次世代に残す意義のある一冊である。
『近鉄バファローズ豪快伝説 球団消滅から20年、今明かされる、真実』から一部抜粋して公開します。
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「勝ったり負けたりだ。負けたり負けたりになったらアカンぞ」
「すごく目をかけていただいたと思います。とくに心に残っているのは、打たれたあとの声かけ。仰木さんには外野沿いをジョギングする習慣がありました。前夜の酒を抜くために走っているという説もありましたが、監督が外野にずっといる光景は他球団にはないもの。外野で練習している投手陣と必然的に距離が近くなる。KOされた翌日でも、『次、しっかり頼むな』と声をかけてくれました。『プロ同士が勝負しているんだから、投手は勝ったり負けたりだ。でも、負けたり負けたりになったらアカンぞ』と。そう言われることで、自分のなかでガス抜きができていたと思います。
仰木さんが監督を退任された1992年のシーズン最終戦は、思い入れのある投手全員に投げてもらうという試合になりました。僕はその頃になるとチームの柱というより、時々先発をしたりする立ち位置でしたが、その試合は先発。最後の最後にこういうところで投げさせてくれるのだなとジーンときました。僕が先発で、抑えが野茂。野茂の抑えは異例中の異例ですよね」
伝説の1988年「10・19」。ロッテとのダブルヘッダーで連勝すれば優勝だったが、2試合目の同点で迎えた9回、ロッテの有藤通世監督が走塁妨害を主張して9分間の抗議。試合時間が4時間を超えたら新しいイニングに入らない規定により、延長10回表の攻撃を終えた時点で残り3分となっていた。時間切れ引き分けで優勝は消滅。この「10・19」で、本職は先発の阿波野が2試合連続でリリーフ登板していた。翌1989年はその悔しさを糧に近鉄は快進撃を続け、10月14日に優勝マジック1で迎えた本拠地開催のダイエー戦で、阿波野は最終回のマウンドに送り出される。しかし、同年にストッパーを務めてきたのは吉井だった。
「普段は吉井が抑えだったところに僕を起用したので、吉井としてはいい気持ちはしないですよね。今の時代は理由をきちんと言わないと、選手は動かない時代になりました。でも、当時は戦術や起用の意味について説明はありませんから、自分たちなりに解釈しながらやっていました」
阿波野は恩師・仰木監督を多角的に捉えていた。自身が指導者となるにあたり、信頼関係の構築は仰木の考えを参考にした。一方で、勝負に徹する厳しい一面も知っている。
「投手は勝ったり負けたり。それが1年単位で起こることもある。そこを仰木さんは理解してくれていました。『そういう年もある。ただ、やり返せる立場にいるのだから、しっかりやってくれ」と言われると、選手は期待してくれているのだと感じます。『もっと投げ込め』のような具体的なことは言わないので、やり方に関しては信頼されていると感じ取るものです。
ただし、仰木さんの方針はグラウンド以外の部分が究極の自己管理状態。だから、その分グラウンドで答えを出すしかない。1軍と2軍を行ったり来たりする選手や、チャンスを与えてもなかなかものにできない選手には厳しかった。ですから、仰木さんをすごく怖いと思っている選手もいました。おそらく、はい上がってきてほしい人とそうでない人とは区別していましたと思います」
当時の近鉄では、投手コーチの権藤博を恩人と慕う選手も多かった。
「あの時代の近鉄はコーチ陣も良かったんですよ。ガミガミ言う人はいませんでしたから。権藤さんはそれまでに出会った指導者と比べると、少し異質でした。鈴木啓示さんの『投げ込め』という方針と真逆で、選手が長く現役を続けられるようにケガをさせないという考え。投手ならば心のどこかで思っていることを言語化してくれて、より良い方向へ導いてくれました。
昔のキャンプでは『2000球は投げなくてはいけない、ユニホームの膝下がドロドロになるまで体勢を低くして投げろ』と指示されるのが当たり前でした。投手はみんな高校のときぐらいから、長年思っていたはずなんですよ。指導者の顔色をうかがいながら『まだ投げるのかな』と。
それなのに、権藤さんは『もうここでやめとけ』と言う。シーズンでは、むしろコーチから『もっと投げてくれ』と頼むことになるから、今はいいと。権藤さんは現役時代にルーキーイヤーから2年続けて30勝以上を挙げて、その過密登板は『雨・雨・権藤・雨・権藤』といわれましたが、そこから勝てなくなって野手に転向した人。自分の経験を踏まえた信念がある。キャンプで球数をセーブするコーチは初めてだったので、『え? もうやめていいんですか?』と衝撃的でした」
しかし、権藤は1989年をもって退団。投手の交代や起用で仰木監督と衝突した結果だった。
「加藤哲郎は一度、西武戦で無失点に抑えていたところを5回途中で交代させられたことがありました。そのあと吉井が投げて、最終的に完封リレーで勝ったのですが、当時球場で取材していた人はみんな、ロッカールームからバンバンと音がするのを聞いていたはずです。加藤はあのときに一番暴れたんじゃないかな。これをきっかけに、仰木さんと権藤博さんがうまくいかなくなり始めたと思います。先発投手には、勝利投手の権利が発生する5回が一つの区切りとして頭にある。打たれてもいないのに、そこで代えたことが投手にとってどれだけ屈辱的なことなのか、というところで権藤さんは引けなかったのだと思います」