近鉄バファローズ豪快伝説 球団消滅から20年、今明かされる、真実

金村義明が泣きながら飲んだ「10・19」 仰木彬監督、ブライアントとの絆と“史上最低”の優勝旅行

株式会社KADOKAWA

【写真は共同】

 プロ野球の球界再編で近鉄バファローズが消滅してから丸20年が経過した。

 にもかかわらず、野球のオールドファンは“近鉄愛”を持ち続け、メディアではたびたび「近鉄」がテーマになっている。

 故・西本幸雄監督が作り上げた軍隊式の厳しい練習もさることながら、いわく二日酔いで打ち続けた、いわく優勝旅行は貧乏旅行、いわく登板直前まで漫画を読んでいた――と、昭和らしい伝説は枚挙に暇がない。

 節目の年に「近鉄バファローズの伝説」を一挙にまとめ、栄光の裏で起きていた豪快かつ愉快な一面をフィーチャー。近鉄の野球史を次世代に残す意義のある一冊である。

 『近鉄バファローズ豪快伝説 球団消滅から20年、今明かされる、真実』から一部抜粋して公開します。

何度も泣いた「10・19」

 金村はプロ5年目の1986年、自己最多の23本塁打をマーク。7月17日の阪急戦で初のサイクル安打を達成するなど中軸を担うまでに成長した。そして、翌1988年には仰木新監督が就任し、近鉄は新時代を迎える。首位・西武を僅差で追い、残り3試合で3連勝すれば逆転優勝。相手は最下位が決定していたロッテで、10月18日の1試合目はラルフ・ブライアントの2ラン2本もあって12–2で大勝。翌19日のダブルヘッダーで連勝すれば、世紀の逆転優勝が実現する―今も語り継がれる伝説の一戦「10・19」だ。

 しかし、大一番を迎えたチームに、金村の姿はなかった。10月13日の試合で帰塁した際、左手首を骨折し、登録を抹消されていたのだ。

「けがをしたときはショックでしたね。チームも佳境を迎えていましたし、僕自身の調子が良かったですから。自宅で試合の結果を聞くことしかできませんでしたが、仰木監督に監督室へ呼ばれて、『お前がいたからここまで来れた。だから最後の2試合、川崎球場でのダブルヘッダーには来いよ』と言ってもらったんです。ダブルヘッダーの前日、左手にギプスをつけたまま上京しました。『絶対に優勝するから、祝勝会のお店をおさえておこう。自分にできることはそれだ』と、その夜に銀座と六本木のお店を予約しました。それで翌日、ホテルからタクシーを飛ばして川崎球場へ行ったら、平日だというのに見たこともないくらい大混雑。いつもはガラガラなのに、人をかき分けてバックネット裏の席にたどり着きました。球場全体を見渡すと、観客であふれかえっているんですよ。ダブルヘッダーの1試合目はものすごい展開で、9回表に僕と同い年の鈴木貴久が勝ち越しのホームを踏んで、中西さんと地面に転がりながら抱き合って喜んでいる。それが決勝点になって4–3で勝ちました。試合後すぐにベンチ裏へ行って、みんなを『ナイスゲーム!』と迎えたら、もう涙を流している人もいる。僕も思わず『なんで俺はこの試合に出られないんやあ』と泣いていたら、仰木さんが『次の試合はベンチに入れ』と言ってくれました。そこで、僕はジャンパーを着て、相手ベンチから見えないようにバットケースの陰から試合を見ていました」

 午後6時44分から始まった2試合目は、9回表を終えて4–4。その裏、近鉄の3番手・阿波野秀幸は無死一、二塁と一打サヨナラのピンチを迎えたが、二塁牽制でロッテの二塁走者・古川慎一がアウトに。この判定にロッテ・有藤通世監督がベンチから飛び出し、近鉄の二塁手・大石大二郎と古川のクロスプレーをめぐって「走塁妨害ではないか」と猛抗議を始めた。このとき、近鉄にはもう一つの戦いが始まっていた。当時ダブルヘッダーの2試合目は開始4時間を過ぎると新しいイニングには入らない規定があった。執拗なまでに続けられた有藤監督の抗議のなか、無情にも時間は刻々と過ぎていった。

「近鉄のベンチからも、スタンドのファンからもヤジの嵐でしたよ。『早くやれ! 早くやれ!』。川崎球場なのに、まるで近鉄のホーム。僕も『有藤、殺すぞ! 早よ戻れ!』とものすごいヤジを飛ばしていました。でも、もともと有藤さんのことが好きでしたから、のちにお会いしたときに『あのときはすみませんでした』とお詫びしました。あの試合は初回に先発・高柳出己さんがロッテ・佐藤健一さんに死球を当てたあたりから不穏な空気やったんです。で、有藤さんの猛抗議中に仰木さんがやってきた。そこで有藤さんは死球のことも思い出して、火がついたのでしょうね。負けん気の塊のような人でしたから」

 有藤監督の抗議は9分間続いたが判定は覆らず、試合再開。近鉄はその回を無失点に抑え、延長戦に入った。しかし10回表に近鉄は無得点、その裏が始まった時点で試合開始から3時間57分が経過していた。優勝の可能性は絶望的となり、10回裏を終えると4時間をとうに過ぎ、ゲームセット。時間という無情な理由によりドローで戦いの幕は降ろされ、西武の優勝が決まった。

「ダブルヘッダーの前に、僕の代わりに三塁で出場していた吹石徳一さんから『お前の分も頑張るからな』と電話がありました。その吹石さんが(ダブルヘッダー2試合目の)7回表に一時勝ち越しのソロを打ったんです。ガッツポーズをしながらベンチに戻ってきて、僕は姿が見えないように隠れていたことも忘れて抱き合いました。

 時間切れで優勝がなくなったときの悔しさったらなかったですね。あと数分しか残っていなかった10回裏、力が抜けたように守りにいくみんなの背中を見ながら、僕も『優勝はなくなった』と放心状態になりました、ベンチ裏のトイレに行くふりをして、洗面所で顔を洗っていたんです。そうしたら仰木さんも来て、顔を洗いながら『俺が泣いていたなんて絶対に誰にも言うなよ』という目をしていました。『人前で涙なんか流したことがない』というのが仰木さんの口癖でしたから。

 もう夜中の0時を過ぎていました。前夜に予約しておいた銀座のお店に電話をしたら『みんな待っていますよ!』と。野手陣みんなで行くと、『感動しました!』と出迎えてくれてね。そのあと六本木のお店にも行って、みんなで泣きながら飲みました」

 しかし、これが近鉄ナインの原動力となった。「10・19」で悔し涙を流した翌1989年は西武、オリックスとの三つ巴の戦いを繰り広げ、10月12日の西武とのダブルヘッダーに連勝。10月14日、本拠地・藤井寺球場でダイエーを下して9年ぶり3度目のリーグ優勝。待ちわびていたファンの前で、仰木監督が宙を舞った。

「仰木さんのエピソードは有名ですが、まあ自ら門限を守ることもなく、遊ぶのが大好きな人でした(笑)。その一方で人前では涙を見せないし、人の陰口も言わない。僕には自分の子どものように接してくれていると感じていたので、何でも話すことができました。選手のことはよく見ていて、たとえば鈴木がスランプに陥ると、僕に『あいつを呼んでおけ』と命じて、一緒にステーキを食べに行ったこともありました。鈴木が『俺、もう野球辞めて、北海道でおでん屋でもするよ』とこぼしたら、仰木さんは『大丈夫、お前は外さへんから』。勝負には厳しかったけれど、選手をやる気にさせるのが上手な人でした」

 仰木監督の次に胴上げされたのは、1988年に加入した外国人選手ブライアント。1989年の西武とのダブルヘッダーで4打数連続本塁打の離れ業を見せるなど存在は大きかった。

「ブライアントは当時、天井を向いてバットを振っていたので、中西さんが特打ちで指導したんです。プライドの高い外国人選手はそういうことをしたがらないものですが、ブライアントは中西さんの厳しい練習に文句ひとつ言わずに取り組んでいました。真面目だったし、人柄もすごく良くて、僕はよくクラブに連れて行ったりしました。

 当時、映画『星の王子 ニューヨークへ行く』が好きで、その主人公役のエディ・マーフィーにブライアントが似ていたから、〝エディ〞という愛称をつけました。本人も気に入ってくれていましたね。1989年の西武とのダブルヘッダーで4連発を放った夜には、一緒に焼き鳥店へ行きました。彼はお酒を飲まないからコーラでしたが、乾杯をしたらブライアントの肩が上がらない。『なぜ4発も打てたのか自分でも分からないけれど、なんだか力が湧いてきたんだ』と話していたので、これは精神力で体の限界を超えてしまったのではないかと思い、すぐ帰るように言って、嫌がっていたけれどハリ治療をさせました。優勝がかかる10月14日のダイエー戦が迫っている。もちろん勝つつもりでしたが、ブライアントが出るか出ないかによってチームの勢いも変ります。ですら、『(ケガが)バレんように(バットを)振るな』と伝えました。だから、優勝した14日の試合、彼は1安打も打っていないんです。

 そうそう、僕が東京のホテルで泥棒に入られたときには、ブライアントにお金を借りました。東京遠征で近鉄ご用達のビジネスホテルで、球団が貸し切っていたフロアに泥棒が入って、選手の時計やネックレスが盗まれた。ブライアントは一番奥の部屋だったので泥棒に入られずに済みましたが、僕はセカンドバッグごとやられました。その日の夜は約束があったから、彼にお金を借りて飲みに行きました(笑)。それくらい、ブライアントとはお互いに信頼のおける仲でした」

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