書籍『獅子回顧録』

セパでなぜ投手の成長に違いがあるのか? 野村再生工場の必修項目と原点

渡辺久信

【写真は共同】

「ライオンズは強くなければいけない」
チームづくりに奔走
栄光と苦悩と激動の20年

選手、監督、フロントとしてライオンズに長く関わってきた渡辺久信氏がチームづくりを振り返る。
2004年に二軍の投手コーチとしてライオンズに復帰してから、GMを務めた2024年までを中心に振り返った書籍『獅子回顧録』(渡辺久信著)から一部抜粋して公開します。

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野村克也監督に教わるためヤクルトへ

 1997年11月下旬、西武から「来季の契約はしない」と告げられた。その前年にノーヒットノーランを達成したが、全体的な成績は落ち気味で、97年はプロ入り初の0勝に終わっていた。トンビさんからは、「ストレートに力があるうちにピッチングの組み立てを変えろ」と言われていたが、モデルチェンジがなかなかうまくいかず、結果的に自由契約となった。

 じつは、最初に球団事務所に呼ばれたときは「トレードかな?」と思っていた。なぜなら当時、「トレード志願選手」というリストを選手会からNPBに提出していて、私は前年からそこに載せてもらっていたのだ。西武が若手に切り替えようとしているタイミングで、登板の機会が減ってきているのは自分自身が一番わかっていた。環境を変えることで、新たな道を切り拓いていきたいと思っていたのだ。

 球団からの通告を受けたとき、「ここでユニホームを脱ぐのであれば、解説者などマスコミの仕事を紹介します」とありがたい話をいただいた。ただ、このときはまだ32歳。自分としては現役への強い気持ちがあり、このまま終わるわけにはいかなかった。球団と揉めるのもカッコ悪いので、「14年間お世話になりました。次の場所は自分で探します」とはっきりと伝えた。

 11月下旬となれば、秋季キャンプはすでに終わっている。アピールする場所がないことに困ったが、いくつかの球団からオファーをもらった。根本さんがいたダイエーからも話があったが、ヤクルトを率いていた野村克也監督のID野球にとても興味があり、関東であればそんなに生活拠点も変わらないこともあって、ヤクルトにお世話になることを決めた。

 なお、西武を辞めるときに「指導者の道」を勧められることは一切なかった。それなりに実績を残してきたので、普通はありそうな気もするが……。のちに、私自身が球団の編成に関わるようになってわかったことだが、当時の私に「指導者はどうだ?」と勧める人などいないだろう。完全な感覚派で、周りからのアドバイスも「ガタガタ言うな。そんなことは全部知っているよ」と受け流すようなタイプだった。喋るのは得意で好きだったので、マスコミ関係を勧めてきたこともよくわかる。編成の立場からすると、「この選手は指導者向き」「この選手は指導者には向いていないかな……」と現役時代の言動やふるまいを見て、判断しているところがある。

連日のミーティングで教わった投手心理・打者心理

 ヤクルトでまず取り掛かったのが、野村さんから課せられたレポートの提出だった。

「なぜ、前球団で戦力外になったのか。自分なりの理由を記せ」

 さすがに何を書いたかまで覚えていないが、後日、野村さんから「おう、渡辺か。やっぱり、お前が一番ちゃんとしたことを書いていたな」と言われて、ちょっと嬉しかった覚えがある。

 野村さんと言えば、ミーティングである。ただ話をするのではなく、ホワイトボードに自ら言葉を記し、選手は黙々とノートに書き写す。春のユマキャンプでは、連日連夜ミーティングがあり、一文字も書き逃さないようにペンを走らせた。こんなに文字を書いたのはいつ以来か……。ここだけの話、野村さんの字はふにゃふにゃしていて、何を書いているのかわからないときがある。その箇所だけ飛ばして、あとでほかの選手に確認することもあった。

 書くことは大変だったが、さまざまな学びが楽しかった。新鮮だったのは、カウント別の投手心理、打者心理を細かく解説してくれたことだ。それによって、自分が持っていた感性や感覚に、根拠となる理屈や裏付けが加わった実感があった。西武でもミーティングはあったが、打者のチャートを作成するのが主で心理面までは掘り下げていなかった。

 私自身、投手心理はわかるが、打者心理の深いところまではわからない。野村さん曰く、「2ボール0ストライクのときは、ピッチャーがもっとも得意な球種を狙っている」。つまりは、ストライクを取れる確率が高い球種、ということだ。

 ほかには、「ピッチャーはストレート以外に、バッティングカウントでストライクを取れる球種を2つ以上覚えなさい」という教えもあった。投手不利(打者有利)なカウントでも打ち取れる球種がなければ、一軍でなかなか勝つことはできない。「野村再生工場」と呼ばれることもあったが、ピッチャーにはシュートの習得を必須項目としていた。

 さらには、「右バッターのインコースはボール球でいい」とも力説していた。ストライクを取りにいってはいけない。ストライクを欲しがるとどうしても甘くなる。インコースは長打と凡打が同居したゾーンで、その差は紙一重。インコースのボール球を生かすためにも、野村さんが「原点」と表現するアウトコース低めのコントロールが重要になる。

 野村さんがすごいのは、Bクラスの常連だったヤクルトに種を撒き、水をやり、日本一を狙えるチームにまで押し上げたことだ。就任1年目の1990年は5位、そこから3位、1位、1位と、就任9年間で4度のリーグ制覇を成し遂げた。

 野村さんの戦いの基本は「弱者の戦法」にある。言い換えれば、「相手が嫌がる野球をやる」。正攻法でぶつかっても勝てないので、相手の弱点を突く。そのためにもチームの武器を磨き、戦えるための引き出しを少しずつ増やしていく。2008年に私が西武を率いたときには、チームが若く、実績のある選手が少なかったこともあり、「がっぷり四つで組んでも勝てない」と考えていた。その中で、失敗を恐れずに積極的にチャレンジしていく野球を貫き、日本一まで駆け上がることができた。

 野村さんとは2008年からの2年間、楽天と西武の監督として戦った思い出もある。試合前のメンバー交換時に話をするのが、何より楽しく、嬉しかった。

 あるときの試合では、「監督、昨日まさかあのカウントでエンドランを仕掛けるとは思わなかったですよ」と言うと、独特の低い声で「おぅ、ナベ、そうだろう」とニヤリとしていた。野村さんを“いじる”と書くと、大変失礼な話だが、どんな話をすると喜ぶかはよくわかっていた。審判からは、「野村監督にあんなこと言うのは渡辺監督だけですよ」と言われたこともある。

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