回想 栄光も屈辱も経験 ドラゴンズでの14年間のすべてを知る男

中日・森繁和監督が増やしたファンサービス 「愛娘との別れ」を乗り越えてチームを指揮した1年

森繁和

【写真は共同】

<落合博満氏推薦>
森繁和は、すべてを任せられる参謀である。
私の中日ドラゴンズでの8年間、
勝負の本質は彼なくしては語れない。

「そろそろ当時のこと、話そうか?」
栄光も屈辱も経験 ドラゴンズでの14年間
すべてを知る男

14年間で四度のリーグ優勝と53年ぶりの日本一
それでも願わくば、もう一度強い中日を見せたかった

『回想 栄光も屈辱も経験 ドラゴンズでの14年間のすべてを知る男』(森繁和著)から一部抜粋して公開します。

積極的に増やしたファンサービス

 落合さんは監督に就任する際、コーチ陣に対して「選手が聞きに来るまで教えるな」「選手より先に帰るな」「選手に手を挙げるな」という方針を伝えた。私は監督就任にあたって改めてそんな話はしなかった。中日はそういう方針のチームだと分かっているコーチばかりだったので、あえて言う必要もなかった。中日でコーチをするからにはそれを踏まえてやるということが、このときは当然の文化のように受け継がれていたのだ。

 チーム方針としては「守り勝つ野球」を掲げた。これは落合監督時代、強かった頃の中日への原点回帰という意味でもあった。1点を取ったらそれを守って勝つ。私もずっとそうやって育ってきたし、打ち勝とうなんて一度も思ったことはない。

 攻撃では、もっと足を使っていかないと駄目だとずっと考えていた。だが荒木もそろそろ現役を終える頃だし、走れるのはせいぜい大島と京田くらい。足の速いレギュラーがなかなか現れない時期でもあった。その辺のことは守備走塁コーチの長嶋と奈良原、森脇の三人に任せていたが、終わってみたら前年の60個から77個へと盗塁を増やしてくれていた。

 それまで疎かだったファンサービスも積極的に増やした。私が西武に入団したときは球団ができて1年目だったこともあり、ものすごくファンサービスを行っていた。日本ハムも西武を真似して一生懸命にやっていたし、パ・リーグはどこも熱心だった。私はセ・リーグに比べて人気の低かった時代のパ・リーグで育ってきたので、それが当たり前だと思っていた。ところが初めてセ・リーグに来てみると、当時の横浜は全然やっていなかったし、中日に来たらもっとやっていなかった。そこは気になっていた点でもあったし、私にできることがあれば協力すると球団や広報にも言った。球場でも上がりのピッチャーはサイン会をやるとか、バッターも相手チームの打撃練習中にやるなど、それは選手に言って協力してもらった。コーチ陣にも「強制はしないけど空いている選手がいたら行かせてくれ」とお願いしていた。

 落合さんの時代は勝つことがファンサービスという方針で、試合後のコメントも一言で終わっていたことも多かった。それがマスコミや週刊誌などに「ファンサービスをしない監督」と受け取られていた。でも「ファンサービスをやらない」とは言っていない。そういう雰囲気を作っているせいか、球団も広報からもお願いに来なくなった。だから落合さんがやらないのではなくて、そもそも球団が選手や監督たちを活用しようとしていなかっただけ。「もっとマスコミに喋ってください」「こういうことをやりたいです」と言われたら、落合さんもできる範囲で協力したと思う。

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