谷繁監督の解任で“監督代行”を打診された森繁和氏 最初は断るつもりも「娘からの一声」で決心
断るつもりだった監督就任要請
監督室で球団社長にそう言われたのはナゴヤドームでの最終戦だった。そのときはそれを受けず、「俺は辞めようと思っています」と断った。落合さんはシーズン終了を待たずに途中からいなくなっていたので、社長と会った後で落合さんには電話を入れた。それで一度東京で会って話そうということになった。
「監督要請の話がありました。なんで俺なんですか!?」
先に書いたとおり、谷繁監督と一緒に辞めるつもりだったし、次の監督は二軍監督の小笠原がなると思っていた。
私の話を聞いて、落合さんは意外な反応をした。
「そうか。やっぱりお前か」
球団が私に監督就任要請したことを、落合さんは知らされていなかった。私はてっきり落合さんが白井オーナーに進言したのかと思っていた。「俺は辞めようと思っていますよ」と社長に言ったことと同じことを落合さんにも言った。
だが、私は後日その考えを改め、監督就任要請を受けることにした。考えが変わった背景には娘のことがあった。このとき娘が癌になっていたのだ。監督就任要請の話があったことを伝えると、娘は私にこう言った。
「やればいいじゃん。せっかくのオファーだし」
娘にそう言われ、監督をやることが娘の励みになるならと考えた。ずっと娘の側で付き添うのもいいかもしれないけれど、私のユニフォーム姿を見たいという娘の気持ちに応えたい、そういう思いもあった。もちろん娘のためだけに監督をするわけではない。次期監督であろう小笠原に良い状態でチームを繋ぐには、現状をよく分かっている自分がやったほうが良いと最終的に考えたのだ。
シーズンが終わって「じゃあ繋ぎの監督として1年ずつやります」と球団社長に話した。監督就任にあたって出した条件はただ一つ、「2年間はコーチ陣の面倒をみてやってほしい」ということだけ。「繋ぎの監督」は長くやるものではないし、私が1年で切られることだってある。だからそこだけは球団にお願いした。
書籍紹介
森繁和は、すべてを任せられる参謀である。
私の中日ドラゴンズでの8年間、
勝負の本質は彼なくしては語れない。
「そろそろ当時のこと、話そうか?」
栄光も屈辱も経験 ドラゴンズでの14年間
すべてを知る男
14年間で四度のリーグ優勝と53年ぶりの日本一
それでも願わくば、もう一度強い中日を見せたかった