谷繁監督の解任で“監督代行”を打診された森繁和氏 最初は断るつもりも「娘からの一声」で決心
森繁和は、すべてを任せられる参謀である。
私の中日ドラゴンズでの8年間、
勝負の本質は彼なくしては語れない。
「そろそろ当時のこと、話そうか?」
栄光も屈辱も経験 ドラゴンズでの14年間
すべてを知る男
14年間で四度のリーグ優勝と53年ぶりの日本一
それでも願わくば、もう一度強い中日を見せたかった
『回想 栄光も屈辱も経験 ドラゴンズでの14年間のすべてを知る男』(森繁和著)から一部抜粋して公開します。
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「お前が代行をやってくれ」
嫌な予感は当たるもので、それでビシエドはバッティングを崩された。この頃の交流戦は1カードしか対戦がなかったので、対策を練って次の対戦でやり返すということもできない。交流戦は7勝11敗で負け越し。チームもここから落ちていった。
8月途中、「谷繁を解任しろ」という白井オーナーの鶴の一声で、谷繁政権は突然幕を下ろされることになった。
攻撃時に普通は監督の隣に打撃コーチがいるものだが、谷繁監督の横にはいつも「野手コーチ」の佐伯がいた。そうなると打撃コーチは当然面白くはない。そういうのをカメラで抜かれると、見ているファンもおかしいと思うだろうし、ベンチの選手達もそう感じる。勝っているときは誰も気にしなくても、負けてくるとそうなってしまう。
佐伯は二軍監督時代に問題を起こしていたことは前に書いたが、そういった話は全部オーナーの耳にも入っていたので、佐伯に対して良い印象は持っていなかったのだろう。それで二人が映っているテレビ画面を見て「こんな状態は見るに耐えん! 辞めさせろ!」と怒った。私はそう聞いている。落合さんは「(4年契約だから)もう1年やらせるべきじゃないですか? そっちのほうがいいんじゃないですか?」と言ったそうだが、オーナーは耳を貸さなかった。それで谷繁監督と佐伯コーチの事実上の解任が決まった。
「次(の監督は)は誰にするんですか?」と落合さんが聞くと、「小笠原がいるだろう」とオーナーは言ったそうだ。さすがにそれは「まだ早いでしょう」ということで、このシーズンは代行監督を立てて戦うことが決まった。
谷繁監督の休養会見が開かれる前、落合さんが球団社長と一緒にナゴヤドームに来た。私は落合さんにこう言われた。
「谷繁が終わる。お前が代行をやってくれ」
谷繁監督の解任が決まってしまった以上、ヘッドの私が代行をやるしかない。「分かりました」と答えたが、3年間この成績なのだからシーズンが終わったら当然自分も辞めるつもりだった。監督が終わるならヘッドの自分も当然終わり。ずっとそう思っていた。
ああいうチーム状態で監督が途中で代われば、もちろんみんなシュンとなる。私は選手達に「代行として俺がやることになった。監督が代わったけど、チームのためとか、そんなことよりもまず自分のことを考えて残り試合をやっていこう」と話した。
私と谷繁監督の関係
今にして思えば、最初の2年が選手兼任監督だったことがちょっと可哀想だった。ヤクルトの古田(敦也)のときもそう思ったけれど、なかなか難しい。監督になる前にコーチの経験があればいろんなブレーンがいるけれども、まだ現役でやっている人にブレーンを作れと言っても難しい。そもそも谷繁監督と同年代でコーチ経験が抱負にある人間が球界に何人いたか? またそれを呼ぶことができたのか? そういう問題もある。ある程度球団が用意した人間と自分の呼びたい人間を上手く混ぜ合わせながらコーチングスタッフを集めるということは、あのときは難しかったと思う。
選手としてはベテランでもベンチのコーチはほとんどが年上。自分より年下のコーチは上田くらいで佐伯と波留が同い年。その佐伯も最初の2年は二軍監督で側にいなかった。谷繁監督にしてもミーティングでは言いたいことも我慢しただろうし、気も遣っただろう。
私が監督のときに11歳上の土井正博さんを打撃コーチで呼んだように、年齢が上であっても問題のない人もいる。だから谷繁と深い付き合いがあり理解してくれて信頼ができる、横浜時代の恩師の大矢明彦さんみたいなコーチが側にいたら、また違っていたのかもしれない。バッティングに関しても、バッテリーのこともピッチャーのことも、対等かそれ以上に喋れるコーチがいたほうが良かったし、いないといけなかった。それを実現してやることができなかった。
GMと監督がもっと密に話してコミュニケーションが取れていたら、結果もまた少しは変わったかもしれない。ただ落合さんも白井オーナーに「現場には一切介入するな。谷繁の好きなようにさせろ」と言われていたそうだ。実際私にも色々言ってこなかったし、現場にもあまり顔は出さなかった。
落合さんは現場に介入しないけども、谷繁監督のほうから相談があれば喜んで喋るような人ではある。勝てないときとか、月間20敗したときとかもそうだけど、落合さんに直接「どうしたらいいですか?」と聞いていたら、いろんなアドバイスをしてくれたはずだ。だけど谷繁監督もそういうことができないタイプだ。弱いところを見せたくないというのも本人の中にあったのだろう。
私自身は谷繁監督との関係が良くなかったとは思いたくない。そう思わせないようにしていたつもりではある。ただやっぱり私にも気を遣っていたのかもしれないし、本当に言いたいことを果たして言ってくれたのかなという思いはある。
この3年間は客観的に見ても戦力的に優勝するのは厳しかった。監督が谷繁であれ誰であれ、チームを引き受けるには難しいタイミングではあった。
谷繁もまだ若い。今後監督を要請されることもあるかもしれない。不本意なことばかりだったかもしれないけれど、自分が思っているようなことができない、無理してでもやらないといけない、自分が言わないといけない、こういった経験は次に監督をやる際に必ず生きるはずだ。いや、生かしてほしい。