球団初のリーグ連覇を果たした落合ドラゴンズ“最後の1年” 選手たちの奮起と森繁和ヘッドコーチの後悔
連覇を支えた浅尾の頑張り
吉見が18勝して、中継ぎ・抑えも岩瀬、浅尾、鈴木、小林、河原みんなよく投げてくれた。特に浅尾は前年の72試合に続いて79試合の登板で防御率が0・41。その前も67試合に投げているし、3年間で218試合も投げている。「もうやめておけ」と言っているのにあいつも意地になっている感じで「いや行かせてください!」と、止めようがなかった。ブルペンに電話すれば「ボールは大丈夫です。本人が行くと言っています」と返ってくる。本当はここでコーチの私が止めなければいけないのだろう。でも浅尾が入ってきたときに「この投げ方だとそんなに長くはできないな」と思っていたところもあった。上体だけで投げていて腕の振りも速い、故障がしやすい投げ方だった。それがあるから打者も打ちづらいし、ボールも速い。そして、あのフォークを投げることもできていたのだけれど。
落合さんの退任発表以降は、勝たなければいけないゲームでは「2イニングでも3イニングでも行かせてください」と言っていたほどだ。日本シリーズでも延長に入ってから「大丈夫です。まだ行けます」と、短いイニングでマウンドを降りようとしなかった。そういうピッチャーだった。
吉見もエースとして最多勝と最優秀防御率の二冠を獲得して、MVP級の成績を残した。しかしこの年のMVPは浅尾になった。中継ぎピッチャーの受賞は異例だったが驚異的な成績だったし「ピッチャーで勝つしかない」と腹をくくって臨んだシーズンの象徴、それが浅尾だった。
涙で喋れなかった最後の挨拶
落合さんの退任発表があって我々コーチもこの年限りとなった。私が獲ってきたグスマンはブランコのような成績を残したわけでもないので「お前もクビ」と球団に言われたのも同然だった。そんなこともあって、落合さんからも「ドミニカに早く帰らせて、ウィンターリーグとかに出て次の仕事場を探させて良いぞ」と言われていた。だから日本シリーズ前に帰らせていた。それを悔いたのが日本シリーズの第四戦、1-2で迎えた六回裏の無死満塁のチャンスの場面。犠牲フライでも同点のケースで、マウンドに上がった森福允彦に抑えられて1点も獲ることができず、試合もそのまま1-2で敗れた。あの場面、代打でグスマンを出していれば外野フライくらいは打てたんじゃないか? そんなことをつい思ってしまうのだ。最後の最後に悔いが残ってしまった。
日本シリーズで負けたことは、落合さんと私の中日での仕事が終わるということでもあった。
七戦目が終わった後、福岡ドームのどこだったか、選手全員を集めて挨拶をした。落合さんに「シゲ、なんか言え」と促され、私は選手達を前にしてこんなことを話した。
「日本シリーズの第七戦まで、お前達と一緒にできた。ありがとう。最後までこういうゲームができると思っていなかった。最後の最後にこんなところまで連れてきてくれて、ありがとうな」
8年間きつい練習をやらせた連中がみんな泣いていた。それを見たら私も柄にもなくもらい泣きしてしまった。最後はもう、涙で喋れなかった。
私も感情が昂ぶっていたので、落合さんがその後にどんな話をしたかは詳しく覚えていない。
「俺は今日でいなくなるけど、今までやってきたことを継続すればいい。変な野球はするな。外から楽しみに見させてもらうよ」
そんなことを話したように思う。
8年間の最後の試合が終わっても私と落合さんはいつも通り。「お疲れ様」も「ありがとうな」のような言葉も特に交わさなかった。次の日がCS番組の収録で、その番組のMCがデニーとお笑いコンビ・ココリコの遠藤章造。酒を飲みながら落合さんと一緒に中日での8年間を振り返るという内容だったから、それが二人のお疲れ様会みたいなものになった。
その番組の中で落合さんが「8年間で一番変わったのは谷繁だよな」と言っていたのが印象に残っている。
谷繁は投手陣にものすごく信頼されていたし、すごく良いキャッチャーだとみんなが思っていた。それは誰しも分かっている。でもピッチャーからしたら自分の「我」を通せないことが多すぎると「面白くない」と思う奴も出てくる。「こっちのキャッチャーでお願いします」と谷繁と組むことを嫌がるピッチャーもいた。落合さんが谷繁を先発で使う、使わないとか、あーだこーだと言ったこともあった。
谷繁はピッチャーが打たれたり、ミスしたときに、はっきりピッチャーに言ってしまうところがあった。名捕手特有のというか、伊東勤にしても古田敦也にしてもそうだけれど、一流のキャッチャーにも「我」がある。谷繁にもそういうところがあった。もちろんいつもではなくて稀にある話だ。ただ落合さん的にはそれは自分が求める野球ではないというのがあったのかもしれない。だから谷繁をスタメンから外すことで「何かに気付け」「何かを感じろ」というメッセージを送っていたように思う。
私は谷繁に呼ばれて相談されたとき、「キャッチャーはある程度ピッチャーをカバーしてあげないとだめだ」と話した。その後の谷繁は変わった。それまでと全然違った。キャッチャーとしての「我」を抑えて、ちょっとピッチャーに合わせるようになった。
落合さんとは中日のユニフォームを脱いだ後も講演会でよく一緒になった。あるとき観客からの「次の監督は誰が良いと思いますか?」という質問に対して、落合さんが「谷繁」と言ったことがあった。それはまた章を改めて振り返ることにしよう。
それにしても、日本シリーズに8年間で5回も出て一度しか勝てないとは思わなかった。確かにパ・リーグはどこも強かったけれど、最初の西武、前年のロッテ、そしてこの年のソフトバンクは今思えば勝てたシリーズだった。首脳陣も監督もそうだけれど、いろんなミスが毎年何かしら一つはあった。まぁ勝てるシリーズを勝てなかったのは、まだまだ甘かったということなのだろう。
落合さんは講演会で負けた日本シリーズについてはほとんど話さない。それだけは触れたくない、言いたくない、振り返りたくないという思いがあるのかもしれない。あのときなぜ動かなかったのか、どういう気持ちだったのか、私もいまだに聞いたことがない。今度会ったときにはそれをちょっと聞いてみようかと思っている。
書籍紹介
森繁和は、すべてを任せられる参謀である。
私の中日ドラゴンズでの8年間、
勝負の本質は彼なくしては語れない。
「そろそろ当時のこと、話そうか?」
栄光も屈辱も経験 ドラゴンズでの14年間
すべてを知る男
14年間で四度のリーグ優勝と53年ぶりの日本一
それでも願わくば、もう一度強い中日を見せたかった