異色のセカンドキャリアを歩む元Jリーガー

静かに引退を表明したファンタジスタ髙萩洋次郎 約半年の“主夫”生活を経て一般企業に就職したワケ

吉田治良

家族との時間を優先するため、一般企業で第二の人生を歩み始めた高萩。慣れない仕事に戸惑うことも多いが、やりがいも見いだしている 【YOJI-GEN】

 2003年に当時の史上最年少となる16歳8カ月3日でJリーグデビューを果たした天才、髙萩洋次郎が今年1月、静かにユニホームを脱いだ。およそ半年間の“主夫”生活を経て、彼が選んだセカンドキャリアは一般企業への就職。華麗にパスを操り、かつてサンフレッチェ広島やFC東京などで活躍したファンタジスタが、その決断の理由と、9月から始まったばかりのサラリーマン生活について語ってくれた。

移籍先を探そうともしなかった2週間

現役時代はイマジネーションに富んだプレーでファンを魅了。広島、FC東京などで中心選手として活躍した 【写真は共同】

――今年1月3日に自身のSNSを通じて現役引退を表明されましたね。髙萩さんほどのキャリアの持ち主であれば、引退会見を開いてもおかしくなかったと思いますが。

 やろうにもできなかったというのが、正直なところです。昨年11月にシンガポール・リーグの年内最終戦が終わり、中断期間に入るタイミングで、当時所属していたアルビレックス新潟シンガポールとの契約を家庭の事情で解除してもらったんです。結局そこから無所属の状態だったので、誰も仕切ってくれる人がいなかった(笑)。ただ、もともと引退会見を開くつもりもなかったんですけどね。

――引退を決断したきっかけは?

 年内最終戦が終わってからしばらくはシンガポールに残って、家族と旅行に出掛けたりしてのんびりと過ごしていたんです。それで2週間ぐらい経って、ふと振り返ったときに、その間一度も「次はどのチームでサッカーをしようかな」って考えなかった自分に気づいたんです。所属クラブがないのに、移籍先を探そうともしなかった。それで、「あ、これはやり切ったってことなんだな、辞めよう」と思ったんです。

――契約解除を決めた段階では、まだ現役を続けるつもりだった?

 日本に戻って、Jリーグのどこかのクラブでプレーする可能性もありました。ただ、こちらの都合で契約を解除してもらった立場なので、すぐに他のチームに移籍するのは、ちょっと筋が通らないなと。最終戦の後に身の振り方を決めようと思っていたんですが、そこで頭に浮かんできたのはサッカーのことではなく、「次にどんな仕事をするか」だったんです。

――現役生活に思い残すことはありませんか?

 まったくないですね。楽しかった思い出しかありませんし、あっという間の21年間でした。ありがたいことに大きな怪我もなく、本当に幸せなプロサッカー人生だったと思います。

――1986年生まれの髙萩さんは、いわゆる北京五輪世代です。昨シーズン限りで青山敏弘さん、興梠慎三さん、梅崎司さんら同世代の選手が相次いで引退しましたが、それも決断に影響しましたか?

 ないですね。僕は「人は人」というスタンスで、他の人のことは気にしないタイプなので。

――北京五輪世代の人たちに話を聞くと、髙萩さんのことを「エリート中のエリート」だったとおっしゃる方が多くいました。そういった意識はありましたか?

 みんな、話を盛っていますね(笑)。僕は福島県のいわき市出身で、どちらかと言えば田舎育ちの雑草ですよ。小学校のころは選抜にも入れませんでしたし、世代別の代表に絡み始めたのも中学3年の終わりくらいから。サンフレッチェ広島のユースに入ってからJリーグデビューまでがトントン拍子だったので、そんな印象が強いのかもしれませんけど。

――広島でのトップデビューは2003年4月5日のJ2リーグ、湘南ベルマーレ戦。16歳8カ月3日で当時のJリーグ最年少出場記録を更新し、その後17歳でプロ契約を結びました。

 クラブ史上初の高校生Jリーガーなんて騒がれましたけど、エリートと言ったら、サンフレッチェユースで同期の前田俊介とか髙柳一誠のほうがよっぽどそうでしたよ。それこそ彼らは、小中のころから誰もが知る存在でしたからね。

――その後、06年にJ2の愛媛FCにレンタルに出され、そこで結果を残して翌年に広島へ復帰しますが、ミシャことミハイロ・ペトロヴィッチ監督のもとではなかなか出番を得られませんでしたね。

 最初はミシャの言っていること、やりたいサッカーが理解できなくて、ついていくのが精いっぱいでした。

引退発表からの半年で上がった「主夫力」

本田、長友、岡崎らと同じ北京五輪世代の中で、誰よりも早くJリーグデビューを果たした天才だが、日本代表歴はわずか3。それでも嫉妬心など一切ない 【写真は共同】

――この07年シーズンは出場機会が限られ、チームもJ2に降格。それも影響して、08年北京五輪への出場は叶いませんでした。それでも08年シーズンは主力として広島のJ2優勝に貢献、さらに12年には森保一監督のもとでJ1初優勝も果たします。個人としてもリーグ最多アシストをマークしてベストイレブンに初選出されましたが、ただこの活躍をもってしても、日本代表に定着することはできませんでしたね。

 そんなに回数は多くないですが、代表に呼ばれるたびに「ああ、自分はこのレベルじゃないな」と痛感させられて、クラブに帰っていましたよ。

――当時の代表は、本田圭佑、長友佑都、岡崎慎司の3人をはじめ、それこそ北京五輪世代の同級生たちがチームの中心でしたが、そこに割って入るのは難しかった?

 もう何年もほぼ同じメンバーで戦ってきて、人間関係も出来上がっている中にポッと入って、短期間で自分の良さをアピールするのは、やっぱり難しかったですね。しかも、あのアクの強いメンバーの中で(笑)。僕自身、周りを活かすプレーを得意としていたので、いつもそこまでの関係性になる前に代表の活動が終わってしまう印象でした。

――FC東京時代の17年3月には、18年ロシア・ワールドカップのアジア最終予選に向けて、当時のヴァイッド・ハリルホジッチ監督から3年8カ月ぶりに代表に招集されました(UAE、タイとの2連戦/髙萩は骨折が判明してUAEからの帰国を余儀なくされる)。ハリルホジッチ監督にはどこを評価されたと思いますか?


 なんでしょうね。ただ広島を離れ、一度海外に渡って(15年1月~オーストラリアのウェスタン・シドニー・ワンダラーズ、15年6月~韓国のFCソウル)、向こうのやり方になじんでいくうちにプレーの領域が広がったのは間違いありません。それまではたくさんボールに触って攻撃のリズムをつくり、決定的なパスを出せるところを評価されてきましたが、それ以外の部分、例えばフィジカル的な強さなんかが、海外に行って自然と身に付いたと思います。

――もっと代表で試合に出たかった?

 そうですね。ロシア・ワールドカップ出場が決まったホームのオーストラリア戦は、メンバー外になってスタンドで観戦していたんですが、あの試合は特に、ベンチでもいいからピッチレベルにいたかったですね。

――北京五輪世代の方々に話を聞くと、みなさんが「本田、長友、岡崎の3人はサッカーにかける情熱と向上心が別格だった」と口をそろえます。髙萩さんもそう感じましたか?

 うーん……プロサッカー選手として成長する過程で、僕と彼らが交わることはほとんどなかったんですよ。圭佑とは年代別代表で一緒にやったこともありましたけど、岡ちゃんと佑都は北京五輪の予選で急に代表に入ってきましたからね。逆に僕は北京五輪の予選にも出ていなくて、Jリーグで結果を残し始めたころには、もう彼らはヨーロッパへ渡っていた。同級生なのにすっぽりと間が抜けたまま、30歳を過ぎてハリルの代表で一緒になって……ちょっと不思議な感覚でしたね。

――ヨーロッパのトップリーグで活躍し、代表でも主力を担っていた彼らに対して、嫉妬心のようなものは芽生えませんでしたか?

 それはないですよ。リスペクトというか、すごいなぁって思っていただけです。彼らは向こうの第一線で活躍するだけでなく、日本サッカー全体のレベルまで引き上げてくれたわけですからね。

――引退後のセカンドキャリアについては、現役時代から漠然とでも考えていたのですか?

 まったく(笑)。引退を発表したのが1月で、それからどうしようかなって考え始めた感じです。計画性がないので、何の準備もしていませんでした。

――それですぐに転職活動を?

 いえ、特に何をしたいというものもなかったので、とりあえずゆっくりしようと。

――怖くはなかったですか?

 まったく。次の仕事がちゃんと見つかるかな……みたいな不安もありませんでしたね。まあ、妻は「そんなにのんびりしていて大丈夫なの?」って、たぶん気が気じゃなかったと思いますけど(笑)。結局、引退発表から半年近くは転職活動のアクションさえ起こさなかったですね。

――その間は何を?

 主夫です。朝起きて2人の娘(小5と小1)のご飯を作って、学校に送り出して、子どもたちが帰ってくるまでに買い物に行って、習い事に連れて行き、晩御飯のメニューを考えて……。本当に、家のことばかりやっていましたね。結婚してからずっと、いわゆるカレンダー的な休みがなかったので、家族には大変な想い、寂しい想いをさせてきました。だから、とにかく家族と一緒に過ごす時間をたくさん作りたかったんです。

――その中で何か発見はありましたか?

 意外に料理のセンスがあったんだなと。妻がいないときにパッと子どもたちにご飯を作れるくらいにはなりましたし、だいぶ“主夫力”が上がりましたね。

――得意料理は?

 最近は麻婆豆腐とか麻婆ナスとか、辛い系の料理にハマっています。子どもたちは食べられないんですけど、自分の夜のツマミにしたり。

――もう少しお子さんが大きくなるまで、サッカーをしている姿を見せたかったという想いはありませんか?

 そういう感覚はないですね。現役の最後にプレーしたシンガポール・リーグでは、試合後に子どもたちがピッチに下りてきても問題なかったですし、長女なんかは練習場の隅っこで宿題をやったりもしていましたけど、そういう海外ならではのルーズさの中で、サッカー選手であるパパの姿を間近で見せることができましたから。

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著者プロフィール

1967年、京都府生まれ。法政大学を卒業後、ファッション誌の編集者を経て、『サッカーダイジェスト』編集部へ。その後、94年創刊の『ワールドサッカーダイジェスト』の立ち上げメンバーとなり、2000年から約10年にわたって同誌の編集長を務める。『サッカーダイジェスト』、NBA専門誌『ダンクシュート』の編集長などを歴任し、17年に独立。現在はサッカーを中心にスポーツライター/編集者として活動中だ。

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