近藤健介「中学時代の3年間が自分のすべて」 過酷で厳しい環境も…家族が全面サポート
豪快なホームランや華麗な打撃技術の裏には、派手さとは無縁の「ふつうの家庭」の物語がある。父・近藤義男さんは、息子に"やらせる"のではなく、"やりたいことをとことん応援する"姿勢を貫いた。
結果として生まれたのは、努力を自ら楽しみ、壁を越える力を備えた一人のアスリート。「教える」ではなく「見守る」――その実践が、侍ジャパンの主軸を育てた。
書籍『世界一の侍選手の育ち方 ふつうの息子がプロ野球選手になれたワケ』(近藤義男著)から一部抜粋して公開します。
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都内の中学校に通うため家族で引っ越し 決め手となった義母のアドバイス
修徳学園中に進学するにあたり、ひとつ大きな問題となったのが、通学時間だった。千葉市から、学校のある青戸まで通うとなると、1時間以上はかかる。修徳学園中は朝練があり、遠征時には早朝に学校に集合することもあった。はたして、3年間通うことができるのか。受験を決めたはいいが、なかなか前に進めないでいた。
そんなとき、奥さんの母親がもっともなアドバイスをくれた。
「そんなね、長男をアメリカまで行かせて、何で次男は野球をやるのに近くに引っ越してあげられないの?」
この一言が決め手となり、京成大久保駅近くに家族で引っ越すことになった。ここからであれば、乗り換えをせずに学校まで30分で通うことができる。
ここで、健介の7つ上の兄・洋介の話をしておきたい。長男らしくおっとりした性格の洋介が、初めて自分の夢を口にしたのは中学2年生になるときだ。
「おれ、英語の先生になろうかな」
夫婦ともに教員であり、その姿を見ていたので、「先生」という職業が身近だったのはたしかだ。当時の担任が英語の先生で、英語の面白さを感じ始めた頃だった。
「じゃあ、高校はアメリカに行けば?」
素直な感情のままに出た言葉だった。英語の先生になりたければ、本場のアメリカでネイティブの英語を学んだほうがいい。お金の面が心配ではあったが、私の両親からのサポートもあり、中学卒業後の8月からアメリカのテキサス州の高校に通うことになった。言語や文化の違いに戸惑うことはいくつもあったようだが、無事に高校を卒業。大学3年時には、「もう1回海外に行きたい」と自ら1年間休学して、フィリピンに行き、現地の大学野球部のコーチとして学生たちに野球を教えていた。
異文化に触れることで人は大きくなる 周りと同じ人生を歩むのは面白くない
英語を学びたければ、言語だけでなく、その土地の文化を学ぶ必要がある。
そもそも、私自身の根底にあるのは、「人生、普通のことをやっていても面白くない」だ。英語の先生になることを考えたら、日本の高校を出て、大学で短期留学するのが一般的かもしれない。しかし、それでは周りの人と一緒の道を歩くことになる。人生を面白くするには、ほかの人と違うことをやったほうがいい。父親からの提案に、洋介自身も「それ、面白いかも」と共感してくれた。
とはいえ、いざ行くとなったら、留学の手続きや事前の勉強など、大変なことがたくさんあった。渡米する前日には、洋介が熱を出して、夫婦で「どうしよう?」とさすがに話し合った。当日は生まれて初めてひとりで飛行機に乗り、しかも直行便ではなく、乗り換える必要があった。そうしたことを15歳の子どもが全部ひとりでやって、それだけでも、人と違う面白い人生を経験できたのではないか。
健介が小学校4年生の夏休みには、家族みんなで洋介のもとへ遊びに行った。健介にとっては、初めての海外だ。たまたまであるが、ドジャー・スタジアムで野茂英雄投手が投げる試合を観ることもできた。こうした経験も、洋介がアメリカに行く決断をしたからこそである。
兄弟2人は年齢が離れている分、小さい頃からケンカもなく、仲がいい。毎年1月、鹿児島県徳之島の天城町で行っている健介の自主トレに、洋介が手伝いに行くこともある。なお、洋介は私が2024年に立ち上げた中学生の軟式クラブチーム「KCレンジャーズ」の監督も務めている。