独自の伝統持つチームで野球を始めた近藤健介 バントが指導者に「取り扱い注意」である理由
豪快なホームランや華麗な打撃技術の裏には、派手さとは無縁の「ふつうの家庭」の物語がある。父・近藤義男さんは、息子に"やらせる"のではなく、"やりたいことをとことん応援する"姿勢を貫いた。
結果として生まれたのは、努力を自ら楽しみ、壁を越える力を備えた一人のアスリート。「教える」ではなく「見守る」――その実践が、侍ジャパンの主軸を育てた。
書籍『世界一の侍選手の育ち方 ふつうの息子がプロ野球選手になれたワケ』(近藤義男著)から一部抜粋して公開します。
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自宅の雨戸に残る数々のボールの痕 ポイントを覚えるためのスタンドティー
自宅の外に防球ネットを設置し、スタンドティーに置いたボールを打つこともよくやっていた。練習というよりは、遊びに近い。車のライトや街灯を利用して、夜9時ぐらいまで、楽しそうにバットを振っていた。
健介は、このときからすでに左打ちである。今でも忘れられないのが、小学1年生のとき、最初は右でスタンドティーを打っていた健介が、「左で打ってみようかな」と言うので、「いいんじゃない。やってみなよ」と言ったところ、その1球目のスイングが右打ちのときより明らかにキレイだったのだ。心の中で、「絶対に左のほうがセンスがある」と確信した。
「松井秀喜選手もイチロー選手も左だしね。左でやってみたら」
健介もその気になり、この瞬間に左打者・近藤健介が誕生した。
たまに、「小さい頃、どんなふうにバッティングを教えたんですか?」と聞かれることがあるが、「何も教えたことはありません」と答えている。なぜなら、最初から直すところがないぐらいキレイなスイングをしていたからだ。さまざまな運動体験や、私の中学校の練習をよく見ていたことが、いい動きのイメージを引き出していたのかもしれない。
あえてスタンドティーにしたのは、打ちやすいポイントを自然に見つけてほしかったからだ。前からくるボールはバッティングセンターで打っているので、家ではスタンドティーで十分。窓の雨戸を閉めて、その前に防球ネットを置いていたが、ネットの外に打ち込むこともあり、そのたびに雨戸がへこんだ。
この打ち込みは、健介が中学に上がるまで続いた。ボコボコにへこんだ雨戸を修理することもできたが、奥さんと「いつか、健介が有名な選手になったときのために、この雨戸は残しておこうか」と話し合い、今もそのままの状態で残っている。当然、そうは言ってみたものの、ここまでの選手になるとは微塵も思っていなかった。
唯一買い与えなかったのはゲーム機 子どもの意思は尊重するが制限はする
外で遊ぶのが大好きな健介が、ゲームにハマることはあまり想像がつかなかったが、健介の良さを伸ばしていくことを考えたときに、近藤家では「買わない」という選択を取った。最初の頃は、「欲しい」と何度か言っていたが、「買ってもらえない」とわかってからそれ以上は言わなくなった。「うちでは無理なんだな」と、子どもながらに我慢というか、理解をしたのだと思う。
「子どもの意思を尊重したい」という気持ちはあったが、親として何でもかんでも認めるのではなく、ある一定のラインは持っていた。私たち夫婦の口癖は「ウチはウチ」だ。近藤家には近藤家のルールがある。息子たちも反発してくることはなかった。
代わりに……というわけではないだろうが、健介はゲームを持っている友達の家に行き、存分に遊んでいた。その時間で満足だったのかもしれない。「健ちゃんが来ると、ゲームを取られる」と言う友達の嘆きも耳に入ってきた。小学4年生のときには、健介がこんな話をしていた。「おれは、全学年全クラスに遊べる友達がいる」。いやいや、そんなはずはないだろうとも思うが、毎日のように誰かと遊んでいたので、きっと本当だったのだろう。ひとりで遊ぶのはつまらないので、常に遊び相手を見つけていた。
なお勉強に関して、口うるさく言ったことはない。「遊びに行くのなら、宿題はちゃんとやりなさい」と言うぐらい。親に怒られない程度にうまくこなしていた。このあたりは次男らしい要領の良さを持っていて、短い時間でパパッと終わらせるタイプだ。
夫婦ともに数学が専門だったこともあり、得意な教科は算数。高校に入ってからの話だが、数学の定期テストで100点を取ったこともあったようだ。私自身は教師として、定期テストの点数よりも、「学んだことをどう生かすか」や「課題解決能力」に重きを置いているのだが、この話は第4章で詳しく紹介したい。
野球がより好きになった少年野球 親も子どもと一緒になって楽しむ
入団してすぐに上級生と一緒に、試合に出させてもらった。もともと友達が多くて、ワイワイ楽しくやるのが好きなタイプなので、みんなで野球をやるのが面白かったようだ。土日だけの活動だったが、練習場所に誰よりも早く行って、最後までグラウンドにいる。野球の練習が終わっても、友達と一緒にサッカーをやっていて、「そろそろ帰るよ」と言うまで走り回っていた。
平日も変わらずに友達と遊び、自転車の前カゴにグラブ2個とボール、バットを入れて、公園に行く毎日。家の周りには野球ができる公園もあり、環境的にも恵まれていた。
泉谷メッツに入れて良かったのは、のびのび楽しくプレーができて、もともと好きだった野球をより好きになってくれたことだ。指導者からの怒声や、理不尽な指導もない。6年生のときには、千葉日報杯で千葉県大会3位に入り、健介はその大会での活躍が認められて第1回NPB12球団ジュニアトーナメントの千葉ロッテマリーンズジュニアに選ばれた。当時のメンバーからは、健介のほかに、髙山俊選手(元阪神/オイシックス)、船越涼太選手(元広島)の3人がプロ入りを果たしている。
この年、私は千葉大学大学院の長期研修に通っていたこともあって、土日に休むことができた。それもあり、泉谷メッツの練習をサブコーチとして手伝い、マリーンズジュニアではマネージャーを務め、チームの活動をサポートした。
少年野球は「親の手伝いが大変」とよく聞くが、奥さんも私も「大変」と思ったことは一度もない。健介が楽しく野球をやっている姿を見るのが、何より嬉しくて、親も一緒になって幸せな時間を過ごすことができた。中学、高校と進むにつれて、子どもとの距離が自然に離れていくので、ともに楽しめるのは小学校までとも思っていた。