野球チームに入らず多数の習い事をさせた両親 昨季MVP打者の片鱗感じさせた小学校時代
豪快なホームランや華麗な打撃技術の裏には、派手さとは無縁の「ふつうの家庭」の物語がある。父・近藤義男さんは、息子に"やらせる"のではなく、"やりたいことをとことん応援する"姿勢を貫いた。
結果として生まれたのは、努力を自ら楽しみ、壁を越える力を備えた一人のアスリート。「教える」ではなく「見守る」――その実践が、侍ジャパンの主軸を育てた。
書籍『世界一の侍選手の育ち方 ふつうの息子がプロ野球選手になれたワケ』(近藤義男著)から一部抜粋して公開します。
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高いコミュニケーション能力 近所づきあいの深さに感謝
一番驚いたのは、スーパーマーケットの焼き鳥屋のおじさんと知らないうちに顔見知りになっていたことだ。小学4年生の頃の話だが、スーパーの空きスペースに出店していた屋台の焼き鳥が食べたくなったのだろう。学校帰り、近くの乾物屋で試食品として配っていた落花生を一握り持って行き、おじさんに「これと交換してください」とお願いしたという。それをきっかけに、健介は屋台の中に入れてもらい、焼き鳥を焼く手伝いまでするようになった。近所の人たちは、「健ちゃんと焼き鳥のおじさんは親戚だから、お店を手伝っているのね」と思っていたぐらい馴染んでいたそうだ。
「物々交換」の話は、おじさんが焼き鳥屋を閉めるときに、「健介がお世話になったみたいでありがとうございました」と挨拶に行った際、直接聞いたことだ。「じつは、落花生との物々交換が始まりなんですよ」と聞いたときには、それはもう驚くしかなかった。
焼き鳥屋さんがあったスーパーの周りは、小さな商店街のようになっていて、家族で焼き鳥を買いに行くこともあれば、ラーメンを食べに行くこともあった。健介は床屋のお兄さんと仲が良くて、キャッチボールの相手をしてもらっていたこともある。小学校と自宅の途中にあったこともあり、帰りの寄り道コースだった。
今の家に引っ越してからわかったのは、田舎っぽさの残る地域で、いわゆる「ご近所さん付き合い」が深いということ。健介が遊んでいれば、近くに住む人たちが声をかけてくれるなど、ごく自然に面倒を見てくれた。
教員の仕事は、朝が早く、帰りが遅い。だからずっと見ていることは現実的に難しい。本書のタイトルを「育て方」ではなく、「育ち方」にしたことにもつながるが、「健介を育てた」なんてことはまったく思っていない。健介がやりたいことをできる環境だけは整えて、あとは地域の皆さんに育ててもらった。本当にありがたいことである。
早い時期に野球チームに入れなかった理由 できる限り多様なスポーツをさせたい
筋肉質なだけあってか、肩は誰よりも強かった。小学1年生のソフトボール投げで、たしか24メートルほど投げて、学年の中でダントツ一番だった(6年時には69メートルを投げ、千葉市の陸上大会で優勝)。私も体は強かったので、その遺伝かはわからないが、柔らかさよりも強さのタイプ。「ベジータみたい」と表現した隣の家の子は、先見の明があったのかもしれない。
当時の私は、公立中学校で教員を務め、野球部の指導をしていた。健介も土日になるとグラウンドに遊びに来ていた。私が子どものとき、父親の学校に遊びに行ったことと
まったく同じである。
指導者として数多くの選手を見ていく中で、感じたことがある。その子の運動神経や運動能力によって、できるプレーや動きが限られてしまうことだ。どれだけバッティングを教えたとしても、体が思い通りに動かなければ、理想的なスイングを実践することはできない。野球の練習も大事ではあるが、野球だけやっていてもうまくはならない。
「プレゴールデンエイジ/ゴールデンエイジ」(5歳~8歳/9歳~12歳頃の時期に運動経験を積むことで、運動能力が向上しやすい)という考えも知っていたので、健介にはできる限り、いろいろな遊びやスポーツをさせたいと思っていた。実際は、「させたい」という親心とは別に、本人が遊びに夢中になって、勝手にどんどんやっていったのだが。
体が強く、外遊びが大好きで負けず嫌い。この特徴をしっかりと伸ばしてあげたい。そのために考えていたのは「多様なスポーツをさせたい」。意図的に、野球だけにはならないように気をつけた。早い時期に野球チームに入ると、ほかのスポーツをできる時間が必然的に減り、どうしても野球の時間が増えてしまう。そうなるのは、小学校高学年になってからで十分。健介自身は早く入りたい気持ちもあったようだが、「もうちょっと待ってもいいんじゃない」とやんわりと伝えていた。
次々と始めて次々と辞めた習い事 子どもの意思を最大限に尊重する
小学校に上がってからは、スイミングスクールに通い始めた。手も足も体幹も使い、全身を鍛える運動としては最適なスポーツだ。クロール、平泳ぎとクラスを上がっていく中で、「もう辞めようかなぁ」と言い出したときもあったが、「バタフライまでの四泳法が取れるまで頑張ってみたら」と背中を押した。本人も「絶対にやりたくない」というほどの拒否感はなかったので、バタフライが泳げるようになった3年生まで続けた。
バドミントンにもチャレンジしている。隣の家のお母さんと子どもが、バドミントンクラブに入っていたこともあり、「ぼくもやってみたい」となった。隣の家族が引っ越した関係でやめてしまったが、1年近くは続いていた記憶がある。
剣道の次に、あっという間に辞めたのがテニスだ。自宅近くのテニススクールに入ってみたが、子どもの数が多くて、なかなか上のクラスに上がることができない。本人はどんどん高いレベルでやりたいのに、それが叶わなかったので「つまらない。辞める」と言い出した。結局、2カ月ぐらいで辞めることになった。
「辞めたい」と子どもが言ったとき、おそらくは多くの親が、「もうちょっと続けてみなさい。すぐに辞めたら“やめグセ”がつくよ」と言いたくなると思うが、私はまったく思わなかった。その根底には、「多様なスポーツをさせたい」という考えがあり、本人がつまらないと思ったものを続けても、あまり意味がないと思ったからだ。
それよりも、子ども自身の意思を可能な限り尊重して、やりたいことに取り組んだほうが、健やかな成長につながる。私が大事にしていたのは、「子どもの好奇心と向上心に蓋をしない」ということ。ひとつのことを続けるのも良いが、どんどん、次のことにチャレンジしていく気持ちも大事にしてあげたかった。その中で、「このスポーツが楽しい。自分に合っている!」と思う競技に出合えればいいと考えていた。