首位攻防戦となる今季最初のエル・クラシコ ともに怪我人を抱えるR・マドリーとバルサ、不安材料が多いのは?
「エル・クラシコ」という言葉に込められた魔力
私がスペインに来てから四半世紀を過ぎたが、いったい何度、このフレーズを聞き、口にし、目にしてきただろう。サッカーファンにとって「エル・クラシコ」という言葉には、何度口にしても心拍数が上がり、期待感に胸が膨らんでしまう魔力が込められている。
そのときの順位など関係ない。エル・クラシコに勝てば、仮にシーズンの終わりにタイトルが獲れなかったとしても、そのエピソードだけでうまい酒が飲めるのだ。その次のエル・クラシコが、またやってくるまで。
スペイン国営放送で最初にエル・クラシコがライブ中継されたのは、1959年2月15日だった。私がスペインに来た当時は、国内で最も視聴率が取れる時間帯ということで、21時キックオフがほとんどだったが(ときには22時スタートもあった)、1959年の最初の生放送は16時開始と当時の新聞に記載されている。
今でこそ、国外との時差なども考慮して16時台に試合が行われるようになったが、当時の決定は2月という日照時間が少ない真冬に、それも内陸地で冬の冷え込みが厳しいマドリードで開催されるという状況を鑑みての、異例のケースであっただろう。
ちなみに、スペインのランチタイムは昔も今も変わらず14~15時くらいなので、スペイン的な感覚だとサッカーの16時キックオフはちょっと早い。食後にひと休みしてからスタジアムに足を運ぶためには、18時以降がベストだ。もちろん、世界中でラ・リーガが放映され、その放映権料が各クラブの大きな収入源となっている現代に、そんな呑気な理屈が通らないことは承知しているが、いまだに日が高い時間帯のサッカーには違和感を覚える。
日が傾き、バールやスタジアムに人が集い始め、老若男女がエル・クラシコの開始を今か今かと待ち侘びているうちに夜の帳(とばり)が下り、キックオフを迎える。そんな体験を一度でも現地でしたことがあれば、その感覚が腑に落ちると思う。
街中の電気屋から高級品のテレビが消えた
しかし、移籍の手続きに問題があったことが発覚。FIFAが仲裁に入った結果、最初の2年間はR・マドリーで、その後の2年間はバルサでプレーし、以降の所属先は両者間の話し合いで決めるとの提案を一度はのんだバルサだったが、最終的にその権利を放棄し、ディ・ステファノを宿敵に譲り渡している。
当時はまだエル・クラシコの呼称は使われておらず、この試合は「世紀の一戦」と呼ばれた。平均年収が1万ペセタ(約1万円)だった時代に、1台3万ペセタという高級品のテレビが2月12日からの2日間で6000台も売れ、街中の電気屋から消えたというから、この試合がどれほどの注目を集めたかは推して知るべしだろう。
もっとも、ホームのR・マドリーが1-0で制した試合では、クバラもディ・ステファノも活躍できず、「世紀の一戦は、単なる週末の一戦にすぎなかった」と、当時の新聞が揶揄(やゆ)している。