去り行く北京五輪世代の矜持と未来

日本代表への欲がなかった男が一度だけ本気で戦ったあの夏【去り行く北京五輪世代の矜持と未来(16)】

吉田治良

努力をしたか、していないか

同い年の岡崎(中央)とは同時期に代表デビューを飾ったが、その後の代表キャリアでは大きな差がついてしまった 【写真は共同】

 当時、興梠は30歳になったばかり。リオ五輪の翌年、17年シーズンも20ゴールを叩き出し、J1リーグのベストイレブンにも選出されている。18年のロシアW杯出場を現実的な目標に、モチベーションを喚起してもおかしくはなかった。しかしこの男、どこまでも欲がない。

「もう完全に燃え尽きました、リオで(笑)。それに、日本代表とかワールドカップとか、僕レベルじゃ行けないってずっと思っていましたからね。17年にはACL(AFCチャンピオンズリーグ)で優勝できたので、今度はJリーグのタイトルを獲ること。それが当時の一番の目標でした。代表は、本当に二の次でしたね」

 北京五輪世代の多くが、みずからを「雑草」と呼ぶ。宮崎の鵬翔高時代から名の知れたアタッカーだった興梠だが、彼にも「エリート」だったという自覚はない。

「エリートだなんて、まーったくですよ(笑)。僕は高校も一般入試で入りましたし、その高校時代にちょっとブレイクしただけで、U-15とかU-16の代表にも選ばれていませんからね。それを言ったらガンバ大阪の家長昭博、サンフレッチェ広島の前田俊介、髙柳一誠、髙萩洋次郎なんかが、本物のエリート。小中のころからすごくて、誰もが知っている選手でしたから」

 ただ、他の北京五輪世代の雑草たちと異なるのは、がむしゃらに下から這い上がって、その地位を築き上げたわけではないということだ。興梠こそまさに、「蝶を追っているうちに、いつの間にか山頂に登っていた」タイプなのだろう。それは本人も認めている。

「もがいてはいないですよ。普通にやっていたら、ここまで来ちゃった、みたいな感じですね」

 だが、マイペースの天才肌だからこそ、雑草のもがきが、這い上がる力が余計に眩しく映ったのかもしれない。

 北京五輪直後の08年10月9日、興梠はUAEとの親善試合で日本代表デビューを飾る。この日、岡田武史監督率いるチームでは、そのキャリアを通じて歴代3位の代表通算50得点をマークし、3度のW杯出場を果たすことになる岡崎もまたデビューを飾っていた。サイドにも中央にも対応できる同じアタッカーとして、彼我の差はいかにして生まれたのか。

 誰よりも、興梠が理解していた。

「最初は僕のほうがA代表でも試合に出ていたと思うんですが、彼との大きな違いは、やっぱり努力をしたか、していないか。本当に、努力は裏切らないんだなって」

給水中まで付いてくるような選手

高校時代に何度も対戦した2人がプロの世界でもマッチアップ。興梠は長友(左)に対して「尊敬の念しかない」と言う 【Photo by Etsuo Hara/Getty Images】

 その意味で言えば、高校時代、同じ九州で練習試合をする機会も多かったという長友(東福岡高出身)は、“努力の権化”のような存在だっただろう。

「佑都は当時ボランチで、練習試合では僕にずっとマンマークで付いていたんです。ボールがタッチラインを割って、そのタイミングで水を飲んでいるところにまで付いてくるような選手でしたね(笑)。そのくらい、いつも必死だった。

 まあ、あいつほど努力した選手はいませんよ。めちゃくちゃ下手だったけど、努力っていうのは……うーん、なんだろうな……努力って、簡単にできないんですよね。それも1つの能力で、佑都はその能力がずば抜けていた。高校のときから知っているから余計に、本当に頑張ったなと思いますし、尊敬の念しかないですね」

 興梠には、自身が「北京五輪世代」であるという認識が希薄だ。実際、予選にも多くは絡んでいないし、本大会で3連敗の悔しさを味わったわけでもない。

「僕にとっての北京五輪世代は、1個上の代なんですよね。カレン・ロバート、増嶋竜也、平山相太、梶山陽平、チュンソン(李忠成)……モロに高校サッカー選手権で見ていた人たちなので、僕なんかは憧れしかなかった」

 しかし、一歩引いた立場だからこそ、谷底から這い上がってきたこの世代の反骨心が、よりダイレクトに刺さるのかもしれない。

「決して強い世代とは言われていなかったですよね。アジア予選もぎりぎりで突破しましたし、むしろスターがいないとか、ここっていうときに勝てないとか、そういう評判がありましたから。北京でもその評価を覆せず、苦い想いを味わった。でも、だからこそ、みんなが必死になってもがいたんでしょうし、だからこそ、その後にA代表で活躍する選手があれだけ多くなったんでしょうね」

“もがかなかった天才”もまた、努力は裏切らないことを知っていた。教えてくれたのは、同世代の仲間たちだった。

「どんなに下手でも、意識さえあれば、あと1歩、2歩寄せることはできるんです。そういうことを、若い選手たちに教えていきたい」

 これから指導者として、興梠が再び戦いの世界に戻ってくる。柔らかな笑顔の向こうに、あの近寄りがたいオーラが見えた気がした。

<第17回につづく>

※文中敬称略

(企画・編集/YOJI-GEN)

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著者プロフィール

1967年、京都府生まれ。法政大学を卒業後、ファッション誌の編集者を経て、『サッカーダイジェスト』編集部へ。その後、94年創刊の『ワールドサッカーダイジェスト』の立ち上げメンバーとなり、2000年から約10年にわたって同誌の編集長を務める。『サッカーダイジェスト』、NBA専門誌『ダンクシュート』の編集長などを歴任し、17年に独立。現在はサッカーを中心にスポーツライター/編集者として活動中だ。

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