去り行く北京五輪世代の矜持と未来

日本代表への欲がなかった男が一度だけ本気で戦ったあの夏【去り行く北京五輪世代の矜持と未来(16)】

吉田治良

08年10月9日のUAE戦での代表デビューから積み上げた代表キャップは16。その才能とJリーグでの実績を考えると、寂しい数字に見える 【Photo by AMA/Corbis via Getty Images】

意識していたのは、あの3人ではなく小林悠

「まあ、一緒に年齢を重ねていったわけですから、引退するタイミングもほぼ同じになりますよね」

 2024年に引退した北京五輪世代がいかに多かったか。その事実を伝えても、興梠慎三はどこか他人事のようだった。

 青山敏弘が、梅崎司が、まるでこの世の終わりを告げられたかのような絶望感を味わった北京五輪落選の報にも、だからまるでショックを受けなかったという。

「僕の場合は、予選に定期的に呼ばれていたわけではなかったですからね。絶対に落ちるでしょ、からの落選だったので(苦笑)、『そうだよね』って感覚しかなかった」

 J1リーグで9年連続二桁得点という前人未踏の記録を打ち立て、歴代2位の168ゴールを積み上げた偉大なストライカーはしかし、日本代表ではわずか16キャップにとどまり、ワールドカップの大舞台とも無縁だった。

「慎三に、あとほんの少しの貪欲さがあったら……」

 梅崎と同じ見解の持ち主は、同世代に限らず少なくないはずだ。それでも、興梠は飄々と我が道を行った。

「僕らの世代だと、本田圭佑や岡崎慎司、長友佑都あたりが長く日本代表で活躍して、佑都なんかは今も現役の代表選手ですけど、僕自身に代表への意欲がそこまでなかったので、彼らと自分を比べることもありませんでした。単にすごいなぁと思っていただけで、負けていられないなって、そんなライバル意識も特になかったですね」

 むしろその視線は、欧州のトップリーグへ羽ばたいた彼らではなく、国内の同じストライカーに向けられていた。

「毎シーズンのように得点王争いをしていた1歳年下の小林悠(川崎フロンターレ)とかですかね、意識していたのは。僕にも海外クラブからオファーはあったんですよ。でも、そういう欲だったり、挑戦しようっていう強いメンタルが、当時はなかった」

 ならばと、仮定の話をぶつけてみる。もし、もっと貪欲なメンタルがあれば、本田、長友、岡崎という“ビッグ3”と肩を並べるレベルにまで到達できたと思うか――。

「まあ、同じくらいにはなっていたんじゃないですか。ちゃんとやっていれば(笑)」

口説き落とされて出場したリオ五輪

16年のリオ五輪ではオーバーエイジとして招集され、遠藤航、大島僚太、南野拓実、中島翔哉ら若いチームを引っ張った 【Photo by Chung Sung-Jun - FIFA/FIFA via Getty Images】

 弾けるように笑ってから、こう続ける。

「でも、ずっとこんなふうに緩くやってきたから、心地よかったのかもしれないし、逆にもっと必死になってサッカーに向き合っていたら、ダメになっていたかもしれません。何が正解かなんて分かりませんが、だからこそ浦和レッズというクラブに出会えたわけですし、これはこれですごく良いサッカー人生だったなと思います」

 もう少しだけ、食い下がってみる。もし今、20代の頃に戻ったとしても、同じ選択をするのか――。

「そのときに結婚していて子どももいたら、行っていたかもしれないですね。現地で子どもに英語とか習わせたいし(笑)」

 またしても煙に巻かれてしまう。

 しかしそんな興梠が、おそらく20年のプロ生活で一度だけ、日本代表のためにがむしゃらに戦ったことがある。それが、オーバーエイジで参加した16年のリオデジャネイロ五輪だった。

「話をいただいたときはシーズン中で、チームも優勝争いをしていたので、最初はお断りしたんです。でも、鹿島のOBで面識もあった手倉森(誠)さんがリオ五輪代表の監督で、何回も一緒に食事に行こうって誘われて……。絶対にそこで熱い気持ちを伝えられるのは分かっていたから、ずっと断っていたんです。大会が終わってから行きましょうって(笑)。でも、結局は口説き落とされたって感じでしたね」

 半ば無理やり担ぎ出された格好だったが、このリオ五輪の戦いを通じて、興梠はかつて味わったことのない感情を抱く。

「あんなにもサッカーに本気で向き合ったのは初めてでした。オーバーエイジで若い選手の出場枠を1つ奪った責任感もありましたし、生半可な気持ちではプレーできないなって。結局、チームはグループリーグ敗退に終わりましたが(1勝1分け1敗のグループ3位)、やっているサッカーはすごく良かった。悔しい気持ちより、『意外にできたな』っていう感覚のほうが強かったですね」

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著者プロフィール

1967年、京都府生まれ。法政大学を卒業後、ファッション誌の編集者を経て、『サッカーダイジェスト』編集部へ。その後、94年創刊の『ワールドサッカーダイジェスト』の立ち上げメンバーとなり、2000年から約10年にわたって同誌の編集長を務める。『サッカーダイジェスト』、NBA専門誌『ダンクシュート』の編集長などを歴任し、17年に独立。現在はサッカーを中心にスポーツライター/編集者として活動中だ。

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